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■丸山さんとの出会いは2002年、メストリ・ブラジリアを日本に招聘して行うイベントの新聞記事を見て、彼が私に電話をくれたことから始まります。なんでも「自分はビリンバウを専門にやっていて、昔メストリ・カンジキーニャにビリンバウを習った。メストリ・ブラジリアも知っている」と自己紹介をしてくださいました。それで私もピンと来ました。以前メストリから「お前よりずっと前にビリンバウを手ほどきした日本人がいた。今は音楽活動をしているらしいが、どこにいるのかコンタクトは途絶えてしまった」と聞かされていたことがあったからです。 ■丸山さんと話しているうちに、奇跡的な偶然の重なりに何度もうならされました。まず丸山さんにカンジキーニャを紹介したアリッセ・K(サンパウロの演劇界では知る人ぞ知る鬼才、メストリ・ブラジリアの生徒)が、私をメストリ・ブラジリアに紹介してくれたその人であること。アリッセとの出会いがなかったら、私はカポエイラを始めていなかったでしょう。丸山さんもおそらくカンジキーニャにはたどり着かなかったに違いありません。 ![]() ■第2に、このサイトでも【ヴァジアソンのページ】で使用しているカンジキーニャの写真は、私がメストリ・ブラジリアからもらって大切にしていたものですが、実は丸山さんとアリッセが92年に撮影したものをメストリ・ブラジリアにプレゼントしたものだったということ。ビリンバウを手に持ったカンジキーニャが立っているのは、彼がレッスンをしていたアカデミアの前です。ここは、丸山さんの文章にも出てくるように、団地の中の集会所のようなところで、現在もカンジキーニャの弟子メストリ・ホッキがカポエイラを教えています。カンジキーニャの未亡人ドナ・イヴォニは、今もこの団地に住んでいて、私も取材に伺ったことのある思い出の場所です。 ■そして丸山さんが、私と同じ愛知県一宮市の出身で、現在は長野県在住ですが、私たちのイベントの記事を見たときたまたま帰省されていたこと。新聞記事が掲載されたのは地方版ですから、あの日あのタイミングで一宮にいらっしゃらなければ、私たちの出会いもありませんでした。そしてなんと週末にコンサートがあるとのことで、私とメストリを招待していただいたのです。メストリ・ブラジリアもこの不思議なめぐり合わせに感動を隠せませんでした。後から別の人に聞いた話ですが、丸山さんもかつての恩師を前にして、久しぶりに緊張したパフォーマンスだったようです。 ■前書きが長くなりました。しかしこういうことがあるんですね。ビリンバウがつないだ縁の一つです。 ■下に紹介するのは、95年7月に『虹をみたブロッケン』という冊子に、丸山さんが書いているものです。ご本人の同意を得て、転載しています。ちょうどこの時期、ブラジルのサンパウロでは、私がメストリ・ブラジリアのアカデミアでジンガを始めていた頃でした。そしてメストリ・カンジキーニャはこの1年前に天に召されていました。 (久保原信司) |
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■「聞こえますか ビリンバウの音が!」 |
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■「カンジキーニャのコイン」 |
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’85年僕はブラジルを旅していた。ブラジル・太陽とサンバの国、町は活気に満ち、人々の目はキラキラ輝いていた。日本の何十倍も広い国ブラジル、子供の頃から音楽が好きだった僕は、ブラジルに行くのが夢だった。思えば高校時代初めて買ったLPがバーデンパウェル、ブラジル一のサンバギタリストである。それ以来サンバギターの魅力に取りつかれ、気づいたら自分でもサンバギターを演ずるようになっていた。そんなサンバギターを追求すればするほどブラジルの思いが募っていった。今その夢が叶った!サンパウロを塒に毎日いろんな音楽、芸術に浸った。ある時はモダンバレー、ある時はロック、ある時は名もないようなちっぽけなLIVEハウスのBOSSANOVA、またあるときは悲しみを演ずるショーロの嘆き……毎日が充実していた。一流のショウが何と日本のお金で二百円位で見られるのである。音楽家の僕にとってこんなに嬉しいことはない。一日三つも四つも見、帰りはいつも朝だった。 |
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旅の半分はサンパウロで過ごし、後半分はブラジルの中の旅行! |
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何百キロも周囲がある牧場でカウボーイと過ごしたり、三つの国に跨っているイグアスの滝に行ったり、とに角日本とはスケールが違う。サルバドールの旅もその一つだった。サンパウロからサルバドールまで三千キロメートル、レイトという座席十五くらいの大型バスで三十八時間の旅である。 |
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サルバドール・かつてのブラジル中心都市、新しい町と昔ながらの町がくっついてある。ほとんど黒人ばかりの町である。寺院が一杯あり、どこか中世のヨーロッパを思わせる町並み。その石畳の中を、ギター片手に歩いていた。その時、その音は突然何の前触れもなく僕の心の中に飛び込んできた。何だ?この懐かしいような心に響く音楽は……。その音はどうやら百メートル位先の人だかりの中から聞こえてくる。何かのショーかな?近づいてゆく――。人々の頭の上から何本も弓のようなものが見える。何だろう?更に近づく。やはりその音は、その弓から出ている。弓の長さは百六十〜百七十センチメートル位であろうか。人々の隙間から見えかくれするその弓は、丸いひょうたんの様なものが下にくっつき、右手にはバチとカシシを持っていた。 |
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カシシとはサンバで使うリズム楽器で、竹で細く編み、中に貝とか石とか木の実を入れ、マラカスのように使う。 |
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更に興味深い事に、左手小指一本でひょうたんと弓を支え、さらに左手の親指と人さし指には石をはさんでいた。その石を上下、又離す事により音程を変えているのである。バチでたたかれるその音は、日本のビワのような音である。その前三メートル位の円の中では、空手の回しげりのような踊りを二人の黒人が踊っている。 |
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カポエラである! |
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目にも止まらない速さで回しげりを出し、お互い紙一重で躱していた。その楽器のリズムが早くなるにつれ、更にエスカレートし、すごい早さになってゆく。思わず僕は、自分の目、耳、体の全ての五感がくぎづけになり見入ってしまった。そのパフォーマンスが終わった時、涙が出てきた。ブラジルがそこにあったのだ!その音といい、踊りといいブラジルそのものだった。これがビリンバウとの最初の出会いである。 |
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ブラジルでのビリンバウLessonテープをもとに毎日練習をした。二年も過ぎた頃だろうか?僕のビリンバウは一人立ちをしていった。 |
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こんな話もある。 |
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その日ちょうど空日だったので、僕はレンタカーを借り窯元巡りをした。その中に二つの素晴らしい事があった。一つは窯元巡りのあい間に、ガイドブックで身の丈六〜七メートルもある観音様を見つけ、捜しにいった。 |
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「カンジキーニャのコイン」 丸山祐一郎 目の前にある1枚のコイン。これは僕にとって最高の宝物!この1枚のコインをみていると、一つの素晴らしいBRASILの思い出が甦ってくる。 |
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そのちょっと途切れた合間に彼は僕の顔を見、いきなり歌を歌い出した。彼の手は机をたたき、爪の音と手のひらの音を巧みに使いCAPOEIRAのリズムをたたき出していく。そのリズムの素晴らしいこと!思わず目の前にCAPOEIRAの踊りが浮かんできた。ジワーっとするものが僕の心の中に溢れてくるのを感じ、初めてBRASILにいる実感がわいた。一曲終わると、彼は笑いながら僕に聞いた。「どう私の声は美声か?歌は最高か?」「もちろん最高です。」すかさず答えた僕の声はうわずっていた。「あなたの声を聞いてやっとBRASILにいる実感がわきました。そしてあなたの人生が見えたような気がします。」そう答えたら、彼は喜びまた両手を広げて歌い出した。続けて二曲。どの曲も最高!ますます目の前のCAPOEIRAの踊りがはっきり見えてきた。すごい!!これがBRASILだ!僕はさっそく明日CANJIQUINHAのアカデミーに行く決意をした。 |
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彼がある黒人の生徒の背中にのり、技の指導をしていたときのことである。生徒がちょっと動いた拍子に、CANJIQUINHAがコンクリートの床に、わき腹から落ちてしまったのである。鈍い音がした。一瞬アカデミー全体に緊張が走った。誰もが青ざめた。BRASILが青ざめた。しかし直後彼は何もなかったのごとく笑いながら起きジョークを言った。みんな、その笑顔を見ホットし、アカデミーは和み、BRASILが和んだ。良かった……そしてそのまま、CANJIQUINHAは何事もなかったようにBerimbauを超人的なリズムで打ち出し、LESSONは再スタートした。 |
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その夜のバイーアは、一段と星が宝石のように光輝いた!まるで一つ一つがアクアマリン(BRASILの石)のようだった。 |
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さて、LESSON日金曜日がきた。今日もBRASILバイーアは快晴、そしてBRASILの風がやさしく吹いていた。朝からBerimbauを買ったり、お土産を買ったり忙しかった僕は、6時30分が待ちきれなく少し早めにアカデミーへと向かった。途中、タクシーの中、「ああ、あのCANJIQUINHAに会える!またあの笑顔が見られる……。それだけでHAPPYになっていた……さあ、アカデミーだ!」CANJIQUINHAは笑いながら僕を迎えてくれ、神様のLESSONが始まった。まだ痛いだろう右手で、彼はBerimbauを教えてくれた。彼の打ち出すBerimbauのリズムは軽い。どんなに早いTEMPOになってもその軽さは変わらず、そのバチさばきはどこをとっても無駄がなく、きれいな放物線を描いていく。ひょうたんの使い方も素晴らしく、前ではなく上下するように見える使い方、これがあのCAPOEIRAの独特のリズムを打ち出す。あっという間の30分が過ぎた。 |
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ふと気がつくと回りに生徒が何人も来ていて、「MUITO BOM. MUITO BOM」と握手を求めてきた……彼もすごく喜んでくれ、みんなすっかり親しくなった。おそらく日本人がこんなにもBerimbauを弾けるとは思ってもみなかったのだろう…… |
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Berimbau7年間弾き続けホントによかった。つくづくそう思った。その後のCAPOEIRAのLESSONでは、CANJIQUINHAの一声で、僕も簡単な踊りを踊ることとなった。黒人達の中、少々恥ずかし気味の日本人が踊った。1時間30分があっというまに過ぎ、あたりはもうすでに真っ暗になっていた。 |
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LESSON終了後、フーッとため息をついていると、CANJIQUINHAが近づいてきた。一枚のコインを僕にくれるという?僕に?信じられなかった。彼が初めてヨーロッパをCAPOEIRAのショーで回ったとき、Berimbauの石の変わりに使ったスペインの銀貨。そのコインを僕にくれたのだ。フチにはBerimbauの弦があたったのだろう。傷がいっぱいついていた。おそらく思い出もいっぱいついているに違いない……彼は言った!「絶対失くすなョ!これは一つしかないのだから……」最高のプレゼントだ。Muito obrigado CANJIQUINHA! |
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海の向こうでは、今日もCANJIQUINHAが冗談を言いながらCAPOEIRAを教えている。フト目の前のコインが微笑んだ。 |
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「どう私の声は美声か?歌は最高か?」またCAPOEIRAの歌が聞こえてきた。 (おわり) |
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