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→メストリ・ビンバとカポエイラ・ヘジオナウ |
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ヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ(Vicente Ferreira Pastinha)は、1889年4月5日、スペイン人の子孫の父と黒人の母のあいだに生まれた。10歳のとき、ある少年とのけんかにいつも負けているパスチーニャを見かねた老人(ベネジット:Benedito)が、彼に声をかけた。彼からカポエイラの手ほどきを受ける。12歳のとき、海軍見習い学校に入り、そこで友達にカポエイラを教えていた。1910年に除隊。その後カジノの用心棒をしたり、靴磨きから新聞売り、土木作業まで様々な職業を渡り歩く。ただパスチーニャ自身は絵描きとして生計を立てることを望んでいたらしい。当時はまだカポエイラが迫害を受けていた時代だった。 |
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1913年から41年までパスチーニャはカポエイラから手を引いていた。当時のカポエイラがあまりにも混乱を起こしていたため、関わりを持ちたくなかったのがその理由だと言われている。41年2月、パスチーニャはアベヘ(Aberre)に連れられて、ジェンジビーハ区で毎週行われていたホーダに行った。このホーダには当時のそうそうたる面々、Antonio Mare, Noronha, Vitor H.U., Livino Diogo, Geraldo Chapeleiro, Olampio, Domingo de Magalhaes, Beraldo Izaque de Santosらが集まっていた。ホーダを取り仕切っていたアモルジーニョ(Amorzinho)が、その権限をパスチーニャに譲り、パスチーニャはそのグループをカポエイラ・アンゴラ・スポーツ・センター(Centro Esportivo de Capoeira Angola)と名付けた。 アモルジーニョの死後、グループは求心力を失い、多くのメンバーがホーダから遠ざかり始めたが、パスチーニャのリーダーシップによって存続する。49年ごろにはサルバドール市民に愛されていたサッカーチーム「イピランガ(Ypiranga)」のユニフォームにちなんで、黄色のシャツ、黒いズボンがグループのユニフォームに採用された。52年にバイーア州政府によってカポエイラ・アンゴラの普及と発展を目的とした団体としての認定を受ける。 |
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1955年、CECAはペロウリーニョ広場の19番に移転する。64年『カポエイラ・アンゴラ』発刊。1966年、セネガルのダカールで行われた第1回黒人アート・フェスティバルにブラジル代表団として参加した。このときのメンバーは他にカマフェウ、ロベルト・サタナイス、ジウド・アウフィネッチ、ガト、ジョアン・グランジらがいた。67年、レコード『カポエイラ・アンゴラ − メストリ・パスチーニャと仲間たち』をリリース。 |
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70年代はアンゴラの一時的な衰退期に当たる。71年、ほとんど視力を失っていたパスチーニャは、道場の修復のために一時的に立ち退きを余儀なくされる。修復工事が終わりしだい戻れるはずだったが、その場所はそのままSENAC(商業専門学校)に売却され、そこにレストランが立てられた。パスチーニャはひどく落ち込み、1年間入院したあと、養老施設に入所。1981年11月13日、92歳で生涯を閉じた。 |
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■本『カポエイラ・アンゴラ』 【目次】 |
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【現代のカポエイラ】 カポエイラ・アンゴラの現状は様々だ。 政府や市民のあいだで理解や賞賛が高まっている。道場にもすべての階級の生徒たちがいる。カポエイリスタはもはやならず者扱いされていない。それはスポーツマンであり、ボクシングやレスリング、柔道の生徒たちと同じなのだ。 最近の傾向としてはカポエイラ・アンゴラを国の格闘技として認めようという動きがある。光栄なことにスポーツ種目の中でも特別な存在として捉えられている。 しかしカポエイラ・アンゴラは国の民俗文化でもあり、バイーアの観光政策でもカポエイラの道場を見逃せない観光スポットとして含めている。 近い将来カポエイラ・アンゴラの道場は多くの人に求められるようになるだろう。それは単に護身術を学ぶためだけでなく、体を鍛え、若さを保つための手段として注目されるだろう。 |
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【カポエイラにおけるマリーシア(malícia)】 すでに述べたようにカポエイラ練習やスポーツとしてのデモンストレーションの中で怪我をすることはめったにない。これがひとたび実戦ということになると、多くの有効な攻撃技に加えて、カポエイラをさらに危険なものにするのがマリーシアである。 カポエイリスタは手の動きを巧みに使って相手をだまし、かく乱する。逃げるようなふりをしておいて、次の瞬間すばやく戻る。縦横無尽に跳ね回り、低くなったと思ったら、立ち上がっている。入って、出る。相手をわざと見ていないふりをして、注意を引く。あらゆる方向に回転しながら、相手を惑わすような抜け目のないジンガをする。 急いで攻撃を仕掛ける必要はない。そのうち相手のほうからミスをして、攻撃に当たってくるだろう。 カポエイリスタたるもの、与えられた情況をすべて利用する術を知っていなければならない。 |
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【カポエイラにおける楽器編成】 カポエイラの練習にとって楽器の伴奏は必要不可欠のものではない。ただカポエイラ・アンゴラのジョーゴにおいては、楽器と歌が伴って初めて、喜びにあふれ、魅力的で、カポエイリスタの魂を揺さぶる神秘的なものになる。さらにジョーゴのリズムを決定する目的もあり、伴奏によってジョーゴもより速くなったりゆっくりになったりする。 用いられる楽器は、ビリンバウ、パンデイロ、ヘコヘコ、アゴゴ、アタバキそしてショカーリョである。 ビリンバウは最も中心的な存在で、欠くことはできない。 <後略 ビリンバウの構造、弾き方など> |
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【カポエイラのメロディーとリズム】 カポエイラ・アンゴラの中で聞かれるメロディーは、純粋に大衆のものであり、作詞の技術や押韻などにこだわらない。カポエイリスタや民衆の感情をそのまま歌いこめばいいのだ。 一般に楽器隊の構成員の一人が歌をリードし、それ以外の人がコーラスで応える。 <中略 いくつかの歌の紹介> ジョーゴのためのリズムは2拍子で、スピードがゆっくりか普通か速いかは、ビリンバウのトーキによって示される。 最も知られているものとしてサン・ベント・グランジはジョーゴの始まりに使われ、スピードはゆっくりめ。サン・ベント・ピケーノは速いリズムで、カポエイリスタは全速力でジョーゴを行わねばならない。 アンゴラもまたジョーゴの始まりに用いられ、スピードはゆっくりのものも速いものもある。サンタ・マリアやカヴァラリア、後者はその昔カポエイラが厳しい迫害を受けていた時代に警察の接近を告げる警告のリズムとして用いられていた。 アマゾナスはすばっしっこいトーキ、イウナはとくに低いジョーゴ用に用いられる。 |
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■レコード『カポエイラ・アンゴラ−メストリ・パスチーニャと仲間たち』のセリフ メストリ・パスチーニャのレコードには、曲と曲の合間にパスチーニャ自身による語りが収録されている。自分の若い頃やかつてのカポエイラの状況が、独特の柔らかいものごしで語られており、当時のカポエイラをしのぶ資料としても大変貴重だ。 また興味深いのは、ここに収録されている曲のテンポ、メロディーが、今日カポエイラ・アンゴラの定番と考えられているいくつかのCDと比べたとき、かなり異なっているということだ。たとえばビリンバウ・ヴィオラのヴァリエーション(repique)は、この時代はずっとシンプルであったし、コヒードに移ると、すぐサン・ベント・グランジに替わっている。 É maior é Deus É maior é Deus, pequeno sou eu O que eu tenho foi Deus quem me deu O que eu tenho foi Deus quem me deu Na roda de capoeira, ha ha Grande pequeno sou eu..... |
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名前はヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ。わしはカポエイラのために生まれてきた。カポエイラを止めるときはこの世を去るときだ。カポエイラのジョーゴを愛している。わしの人生でこれ以上のものはない。残された人生もカポエイラに捧げるだろう。 |
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もう79歳になる。あぁ、思えば波乱に満ちた人生だった・・・、しかし幼少のころの仲間から今日まで一緒に過ごしてきた人まで、何千、何万の人がわしのことを知っている。彼らがわしについて何か言おうと思えばどんなことでも言えるじゃろう。わしの経歴・・・どんなことを言われてもかまわない、どんなことでも受け入れよう。ただこれだけは言っておく。わしは無能じゃなかった、カポエイラのホーダでは馬鹿じゃなかった。 |
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マンジンガにおいては無能じゃなかった。しかし今わしに何かを語れといわれても、何も語る気はない。語り始めたらそれはそれは長い話になるし、まるで自分が空にいるように思えてくるのだ。 |
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かつてのカポエイリスタたちはいろんな騒動を起こしてきたものだ。もっとも常に彼らが悪いわけではなく、逆に挑発されるよう場合もあったがの。カポエイラ(vadiação)をしているとき、ビリンバウを持っているじゃろう。すると警察たちがやってきてそれを取り上げようとする。取り上げて、折ってしまうのだ。さぁすると大変だ。カポエイリスタたちは自分の楽器を取り上げられたくないものだから、当然ケンカになる・・・ ところでビリンバウはただの楽器じゃなかったのだ。ほとんどの人はビリンバウは楽器で、音を鳴らし、音楽に使うものだと思っている。しかしときにそれは武器にもなったんじゃ。もちろん平穏なときには楽器じゃよ。これがいざという時になると鎌になった・・・ |
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わしの時代にも小さい鎌の刃を持ち歩いていた。それは指輪のような輪がついていて、ビリンバウの先端に付けられるようになっていたんじゃ。もっともわしはライバルたちからすごく好かれていたので(皮肉の意味で-訳者)、その鎌の背面にもう一つの刃を付けるよう両刃の特別製を注文したのじゃが、それはできなかった・・・ それでいざというときが来たら、ビリンバウの針金とカバッサをとりはずし、鎌をセットして使うんじゃよ。カポエイリスタはジンガもすればくるくる回る、相手を傷つけることもあるし、自分の身を守らなくちゃいけない。カポエイリスタというものはすべての物事に対応できる心構えを持っているんじゃよ。それから冷静さ、落ち着いていればいるほどいいカポエイリスタなんじゃ。 |
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カポエイリスタたるもの慌ててはいけない。他人を挑発するのもいけない。カポエイリスタにはしてはいけないことがいくつかあるのだ。 わしの時代にもひどいカポエイリスタもいたものだ。そのひどさといったら、自然が彼にそうさせるとは思えないほどだった。そいつらは白いネッカチーフを首に巻いて、30センチはある口の広いズボンをはいていた。帽子はこうして横に傾けて、肩で風を切って道の真ん中を歩いていたものじゃ。その格好はズボンというよりスカートに見えたくらいじゃよ。当時のカポエイラはそんな感じだったな・・・ 当時でもまともなカポエイリスタたちはいろいろなところで活躍していた。わしは今のカポエイリスタが立派に世の役に立っているのを感心するよ。 |
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わしは過去のカポエイラたちを受け継いでいる。バイーアには多くのベテランたちがおる。年老いて、わしよりもっと年老いたベテランのカポエイリスタがおる。 |
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アベヘという弟子がいた。わしと同じ名付け親から名前をもらっていて、彼はLadeira do Sao Franciscoに住んでいて、わしはLadeira do Entulhoに住んでおった。彼はわしの家に来ては、わしからカポエイラを習った。ちょうど海軍を除隊した頃じゃったの・・・ |
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ある友人から頼まれてカジノの守衛をして欲しいと言われたので、そこへ行った。そこでそのカジノを開く許可を取るために警察に出頭しなくてはならなくなった。わしらは一緒に警察に行き、その友人が言ったんじゃ。「だんな、彼が店の面倒を見てくれる守衛です」。すると警察はわしの頭から足までじろじろ見て、「この小僧がカジノを見るって?まだガキじゃないか!」「しかしだんな、どうしても彼に任せたいんです」「こいつにはカジノなんかできん」「でも彼じゃなきゃダメなんですわ」。こんなやり取りが続いたが、結局許可はおりた。 その警察はわしのほうに来て名前を聞いてきた。わしは「ヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ」と答えた。彼はわしの身分証を取りながら、「なんだ君がうわさのパスチーニャか。聞いてはいたけど直接会うのは初めてだな。ちょっとこっちへ来てくれ」。わしは捕まるのかと思ったが・・・ |
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ジェンジビーハにカポエイラのグループがあった。あそこはメストリだけが集まっていた。このバイーアで最高のメストリたちが集まっていて、日曜日にホーダをしていた。そこに弟子のアベヘも通っていた。 あるときそこのメストリたちがアベヘに、お前は誰からカポエイラを習ったのかと聞いたらしい。彼はわしの名前を言った。「連れて来いよ、ぜひお会いしたい。有名なあの人か、すごいカポエイリスタに違いない」。アベヘは自分がジョーゴをしているのを見て欲しいと言って、わしをそのホーダに誘ったんじゃ。 ホーダに行くと、ホーダを仕切っていたアモルジーニョ(Amordinho)がやってきて、わしの手を握り、わしにこのホーダの面倒を見てくれと頼んだ・・・ |
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