旅の音楽家   丸山祐一郎

TOP



■丸山さんとの出会いは2002年、メストリ・ブラジリアを日本に招聘して行うイベントの新聞記事を見て、彼が私に電話をくれたことから始まります。なんでも「自分はビリンバウを専門にやっていて、昔メストリ・カンジキーニャにビリンバウを習った。メストリ・ブラジリアも知っている」と自己紹介をしてくださいました。それで私もピンと来ました。以前メストリから「お前よりずっと前にビリンバウを手ほどきした日本人がいた。今は音楽活動をしているらしいが、どこにいるのかコンタクトは途絶えてしまった」と聞かされていたことがあったからです。

■丸山さんと話しているうちに、奇跡的な偶然の重なりに何度もうならされました。まず丸山さんにカンジキーニャを紹介したアリッセ・K(サンパウロの演劇界では知る人ぞ知る鬼才、メストリ・ブラジリアの生徒)が、私をメストリ・ブラジリアに紹介してくれたその人であること。アリッセとの出会いがなかったら、私はカポエイラを始めていなかったでしょう。丸山さんもおそらくカンジキーニャにはたどり着かなかったに違いありません。


■第2に、このサイトでも【ヴァジアソンのページ】で使用しているカンジキーニャの写真は、私がメストリ・ブラジリアからもらって大切にしていたものですが、実は丸山さんとアリッセが92年に撮影したものをメストリ・ブラジリアにプレゼントしたものだったということ。ビリンバウを手に持ったカンジキーニャが立っているのは、彼がレッスンをしていたアカデミアの前です。ここは、丸山さんの文章にも出てくるように、団地の中の集会所のようなところで、現在もカンジキーニャの弟子メストリ・ホッキがカポエイラを教えています。カンジキーニャの未亡人ドナ・イヴォニは、今もこの団地に住んでいて、私も取材に伺ったことのある思い出の場所です。

■そして丸山さんが、私と同じ愛知県一宮市の出身で、現在は長野県在住ですが、私たちのイベントの記事を見たときたまたま帰省されていたこと。新聞記事が掲載されたのは地方版ですから、あの日あのタイミングで一宮にいらっしゃらなければ、私たちの出会いもありませんでした。そしてなんと週末にコンサートがあるとのことで、私とメストリを招待していただいたのです。メストリ・ブラジリアもこの不思議なめぐり合わせに感動を隠せませんでした。後から別の人に聞いた話ですが、丸山さんもかつての恩師を前にして、久しぶりに緊張したパフォーマンスだったようです。


■前書きが長くなりました。しかしこういうことがあるんですね。ビリンバウがつないだ縁の一つです。



■下に紹介するのは、95年7月に『虹をみたブロッケン』という冊子に、丸山さんが書いているものです。ご本人の同意を得て、転載しています。ちょうどこの時期、ブラジルのサンパウロでは、私がメストリ・ブラジリアのアカデミアでジンガを始めていた頃でした。そしてメストリ・カンジキーニャはこの1年前に天に召されていました。
                                                          (久保原信司)

TOP




■「聞こえますか ビリンバウの音が!」

■「カンジキーニャのコイン」
TOP





 
「聞こえますか ビリンバウの音が!」

                                                        丸山祐一郎

 ビリンバウそれは一弦の楽器である。


 ’85年僕はブラジルを旅していた。ブラジル・太陽とサンバの国、町は活気に満ち、人々の目はキラキラ輝いていた。日本の何十倍も広い国ブラジル、子供の頃から音楽が好きだった僕は、ブラジルに行くのが夢だった。思えば高校時代初めて買ったLPがバーデンパウェル、ブラジル一のサンバギタリストである。それ以来サンバギターの魅力に取りつかれ、気づいたら自分でもサンバギターを演ずるようになっていた。そんなサンバギターを追求すればするほどブラジルの思いが募っていった。今その夢が叶った!サンパウロを塒に毎日いろんな音楽、芸術に浸った。ある時はモダンバレー、ある時はロック、ある時は名もないようなちっぽけなLIVEハウスのBOSSANOVA、またあるときは悲しみを演ずるショーロの嘆き……毎日が充実していた。一流のショウが何と日本のお金で二百円位で見られるのである。音楽家の僕にとってこんなに嬉しいことはない。一日三つも四つも見、帰りはいつも朝だった。


 旅の半分はサンパウロで過ごし、後半分はブラジルの中の旅行!


 何百キロも周囲がある牧場でカウボーイと過ごしたり、三つの国に跨っているイグアスの滝に行ったり、とに角日本とはスケールが違う。サルバドールの旅もその一つだった。サンパウロからサルバドールまで三千キロメートル、レイトという座席十五くらいの大型バスで三十八時間の旅である。


 サルバドール・かつてのブラジル中心都市、新しい町と昔ながらの町がくっついてある。ほとんど黒人ばかりの町である。寺院が一杯あり、どこか中世のヨーロッパを思わせる町並み。その石畳の中を、ギター片手に歩いていた。その時、その音は突然何の前触れもなく僕の心の中に飛び込んできた。何だ?この懐かしいような心に響く音楽は……。その音はどうやら百メートル位先の人だかりの中から聞こえてくる。何かのショーかな?近づいてゆく――。人々の頭の上から何本も弓のようなものが見える。何だろう?更に近づく。やはりその音は、その弓から出ている。弓の長さは百六十〜百七十センチメートル位であろうか。人々の隙間から見えかくれするその弓は、丸いひょうたんの様なものが下にくっつき、右手にはバチとカシシを持っていた。


 カシシとはサンバで使うリズム楽器で、竹で細く編み、中に貝とか石とか木の実を入れ、マラカスのように使う。


 更に興味深い事に、左手小指一本でひょうたんと弓を支え、さらに左手の親指と人さし指には石をはさんでいた。その石を上下、又離す事により音程を変えているのである。バチでたたかれるその音は、日本のビワのような音である。その前三メートル位の円の中では、空手の回しげりのような踊りを二人の黒人が踊っている。


 カポエラである!


 目にも止まらない速さで回しげりを出し、お互い紙一重で躱していた。その楽器のリズムが早くなるにつれ、更にエスカレートし、すごい早さになってゆく。思わず僕は、自分の目、耳、体の全ての五感がくぎづけになり見入ってしまった。そのパフォーマンスが終わった時、涙が出てきた。ブラジルがそこにあったのだ!その音といい、踊りといいブラジルそのものだった。これがビリンバウとの最初の出会いである。


 その後すぐ近くの民芸品の店に行き、二千本近い大小様々なビリンバウの中から、一番いい音のするビリンバウを買った。


 ビリンバウとギターを持ち歩いていると、いきなり路上カフェの黒人達に呼び止められた。
 「ビリンバウ教えてやるから来いよ。」
 「エッ!」
 何というタイミング!その集団は、さっきカポエラをしていた十人位の集団だった。早速その集団に加わりビリンバウのLesson!!まあ、これがとにかく陽気!ビールを飲みながらみんなでワイワイ……。その中にサルバドールのビリンバウの先生がいた。その老人は言った。
 「ビリンバウの音は、この広いブラジルの大地に響かせるように音を出さなくてはいけない!」
 僕はその一言に感動した。
 二時間程たち、簡単なリズムは何とかたたけるようになった。そして日が暮れていった。



 バイーアサルバドールの夕暮れは、本当に美しい。絵に描いたような水平線に夕日が沈んでゆく――。海のブルーに夕日の赤かがさりげなく溶け込んでゆく。おそらくこんな美しい夕暮れは世界中どこを捜してもないだろう……。こうしてビリンバウと感動的に出会った一日が過ぎていった。その日以来僕の手には、ギターとビリンバウが必ずある。


 日本に帰り五年の月日が流れた。



 ブラジルでのビリンバウLessonテープをもとに毎日練習をした。二年も過ぎた頃だろうか?僕のビリンバウは一人立ちをしていった。


 カポエラのリズムパターンを身につけた僕は、ビリンバウを更に深く追求した。この一弦しかない単純な楽器に無限の広がりと可能性を求めるようになった。


 一つの音、それはこよなく美しい……。ビリンバウを追求すればする程、それが分かってきた。何故なら一弦しかないビリンバウ!バチでたたき、石で押さえて音程を変える。それをひょうたんで共鳴させる。この単純な作業の中に無限の音が隠れている。同じ音は二度と出ないのである。一つの音は一瞬にして消え去るけど、その瞬間どんな宝石よりも美しく光り輝く!そんな音を微妙に繰りかえし演奏してゆく喜び、音楽家にとってこんな喜びはない。又それだけに奥が深く難しい……。一つの音の大切さ、僕はビリンバウに出あい初めて知った。


 今このビリンバウを片手に全国を回っている。


 ある時、北海道の富良野に行き、ブタ四百頭の中ビリンバウを弾いた!最初の五分ブタ達は逃げ惑っていた。しかしそのうち何とブタ達が近寄ってきて耳を立て聞いているのである。その時僕は、一頭一頭のブタ達の顔が人間の様に思えてきた。益々心をこめビリンバウを弾いた――。曲が終わりブタ達に聞いてくれてありがとうって言い素直に頭を下げた――。自分でも不思議だった。そんなふうに自然に出来る事、こんなに素晴らしい事はないと思う。おそらくブタ達にとって、初めて聞いた音だったのだろう……。でもその音は、ブタ達にとってきっといい波長だったのだ。



 あっ!そうそう、小屋を一歩出ると外は満点の星空、初雪が降った大地にキタキツネがちょこんと座りこっちを見ていた。きっとキタキツネも聞いていたに違いない。



 こんな素敵な事があった夜からか、僕のまわりにはいろんな友達が集まりだした。ある時は絵描き、ある時は書道の先生、ある時は天気予報のおネェさん!もちろん音楽家も一杯集まってきた。そしてどの人間も、拘りを持って生きている素敵な素晴らしい人達ばかりだった。そんな人達が僕のビリンバウを通じ別の人に会い友達になってゆく。たった一本の弦から友達が広がる。何て素晴らしい事なのだろうか?ビリンバウの持つ不思議な力に改めて驚かされてしまう。


こんな話もある。

 ある時、九州は福岡に演奏旅行に行った時の事である。

その日ちょうど空日だったので、僕はレンタカーを借り窯元巡りをした。その中に二つの素晴らしい事があった。一つは窯元巡りのあい間に、ガイドブックで身の丈六〜七メートルもある観音様を見つけ、捜しにいった。

 駐車場はあったのだが観音様はない!てっきり僕は外に観音様が立っているのを想像していた。少し歩いたのだがないので、近くのお寺に入り本堂階段の木の葉を掃除している住職さんに聞いた。

「参拝ですか」
 
 住職はそう言うと本堂に入っていった。僕はその後に続いた。靴をぬぎ本堂の中に入ると、あの独特の線香の臭い、外の世界とハッキリ遮断していた。どこにも観音様はないじゃないか?住職は本堂の正面、棚の前に座布団をしき僕をそこに座らせた。そして奥に行くと天井まであるかの扉を手前に開いた。ギーッとものすごい音がした。その音は本堂全体、いや山寺全体、いや山の空気全体を震わせた。僕はその音が何百年もの時の音の様に思えた。真ん中から片方ずつ開くと中には天井まで届く観音様が無言で立っていた。木で出来たその色は何百年もの風格をかもし出し、更に僕を圧倒している。
 


 時が止まってしまった。

 そのとき、突然大太鼓がすごい音で本堂に鳴り響いた。瞬間、何事が起きたのか分からなかった・・・・・・。

 平静を取り戻しまわりを見ると、さっきの住職が大太鼓をたたいている。そしてお経が始まった。その声は、太鼓の響きに乗り軽快に山寺の中に響きわたってゆく。何分だったのだろう、いや何十秒だったのかも知れない。その音は、僕の心を快い波長で震わせ、目の前の観音様を更に美しく見せた。お経が終わり又静けさが戻った時、僕はまたもや涙が出た。一人でこんな贅沢をしていいのだろうか?音の贅沢僕は思った。



 もう一つの素晴らしい事は、窯元巡りの最後の窯元に行った時の事である。その焼き物は、さっきまで見た焼き物とは全く違っていた。色づけ、形、どれを取ってもすごくシンプルだった。僕は、「どうしてこんなにシンプルなのですか?」と陶芸家に尋ねた。その陶芸家は言った。



 「私は80%しか焼き物を作らないのです。後の20%は使う本人がいろいろなものを入れ、100%になるように使うのです。私にとって焼き物は生活の一部です。使う人があって物なのです。」又もや感動!何とすごいことだろう。80%しか出さない。これは全てに通じると思った。絵でも100%描いては、見る人が苦しくて見ていられない。よい絵は見る人に20%の空想を与えている。音楽家にもそれが言え、100%の演奏は押しつけでしかない。これは又、本当に難しい事で、100%出す力がないと80%は分からないのである。


 この二つの素晴らしい事は、音楽家の僕にとって一生の課題の様な気がした。ビリンバウを追求している僕に神様が体験させてくれたのだ。


 更にこんな話もあった。



 その時僕は同じ様に演奏で山形を旅していた。山形の商店街で偶然絵の個展を見た。その絵は水平線、地平線ばかり描いている画家の個展だった。何故か、色、タッチ、気になるものがあり、受付の女の人に色々尋ねた。すると、日本よりもブラジル・サンパウロで個展を開いているという。なるほど、それが何か心に通じるものがあったのだ!僕がブラジルが好きで南米の音楽をやっている事を話すと、ぜひ山形に面白い人がいるから会ってくれと言う・・・・・・。早速住所とTELを教えてもらいそこに行く事にした。



 その人はエスプレッソという喫茶店をしていた。タクシーでそこに行くと何と、国鉄の貨車二両で出来た喫茶店!その赤い重い鉄の戸を開けると中からクマさんの風体をした大柄のヒゲもじゃの男の人がニコヤカに挨拶をしてくれた。名前は昌平さん。


 「個展の会場の女の人から話は聞いています。」


 中には渋い大きな木の机があり、その横には同じく木の丸テーブル、又ストーブがポンと置いてあった。とても国鉄の貨車の中とは思えない。カウンターも中にあるので十人も入れば一杯である。Coffeeとケーキをたのみ、中をよく見渡す。棚には、チャランゴ、シーク他色々な楽器が一杯のっかっている。又インドの太鼓、タブラを部屋の隅に見た。そこまで見て思わず僕は、アッと叫んだ。何と部屋のもう一方の隅にはビリンバウが立て掛けてあった。少し小さいけど正しくビリンバウであった。


 「このビリンバウは弾かれるのですか?」昌平さんに尋ねた。


 「いや弾き方が分からなくて、誰か知っている人に教わりたいのです。」と言う事。
 僕はすかさずに答えた。実は僕はビリンバウを専門にやっている。そして全国をまわっているのだと言った。向こうも「エーッ!」そして早速四、五人のお客さんも含めビリンバウのLessonが始まった。


 バチがなかったのでハシで弾き出すともうオオウケ・・・・・・。エスプレッソの喫茶店は五分もたつとすっかりブラジルになった。

 すっかり意気投合し、そのまま夜は、昌平さんのアパートに泊まってしまった。少し図々しかったかな?こんなに一杯のビリンバウによる体験、これはもうビリンバウ自体に力があるとしか思えない。


 ここで少しビリンバウのルーツに触れて見る事にする。



 一六世紀ブラジルの奴隷制度があった頃ビリンバウが生まれた。黒人奴隷は、毎日過酷な労働に耐えわずかな発散の糸口はカポエラをする事ぐらいだった。

 カポエラとは、手を使わず日本の空手のような武術、彼らはその武道に日増しに打ち込み、いつしかカポエラで貴族階級に反抗する様になった。貴族達は、恐れをなしカポエラに弾圧をかけた。その時黒人達は、何とかカポエラを残そうと舞踏に改め、その時発案されたのがこのビリンバウである。だからビリンバウの音には、黒人奴隷達のやりきれない嘆き悲しみが含まれているのだ・・・・・・。


 又サルバドールの黒人奴隷達は、アフリカのアンゴーラ地方からやって来た。その為、カポエラの最初のリズムは、アンゴーラと呼ばれるリズムから始まる。そしてエスカレートしてくるとソンベントグランジ(偉大な神様)というリズムに変わってゆく。こんなすごい歴史を持つビリンバウ。ビリンバウの持つエネルギーは、こんなところからくるのかも知れない。



 僕自身ブラジルから帰って間もない頃のビリンバウは、あまりにもその歴史、リズムに拘りをもちすぎていた様に思う。その拘りはいい事なのだけれど、日本人の僕にはやはり違和感があり、又そのカラを破ることはなかなかできなかった。そのリズムが変わったのは、あの北海道のブタに聞かせてからだと思う。その時僕には、ブラジルも黒人奴隷の嘆き悲しみもなかった。あるのは目の前にいる四百頭の豚、そして自分だった。自分の中からどんどん自由なリズムが溢れ出て来るのを感じ、それはあたかもビリンバウのおしゃべりの様に思えた。その時、ビリンバウが変わり、ブラジルを離れ、自分のビリンバウになった。



 今日も僕はビリンバウをたたき続ける。最近は特に自然を感じる。自然なものを使った自然の音のビリンバウ。そこには、人間の忘れている何かが一杯つまっている。80%の事、ブタにビリンバウを聞かせた事、山寺の観音様、サルバドールの老人が言った言葉・・・・・・。いつも僕のビリンバウには、それらが交差し、山形に支部が出来、北海道、富良野、名寄にも支部が出来つつある。今富良野では、ひょうたんの種植えから始まっている。おそらく二年後には何百本というビリンバウが出来るだろう。そのビリンバウをみんなで果てしなく広がった青空に向かって弾く!きっとその音は、海を飛び越え、地球の反対側の国ブラジルまで届くに違いない!


 こんな素敵な事があるだろうか?


 そんな夢が一杯つまったビリンバウに乾杯!


 ビリンバウそれは一弦の楽器である・・・・・・。

 (おわり)

TOP





 「カンジキーニャのコイン

                                               
丸山祐一郎

 目の前にある1枚のコイン。これは僕にとって最高の宝物!この1枚のコインをみていると、一つの素晴らしいBRASILの思い出が甦ってくる。


 9211BRASILはサルバドール、一つのちっぽけな部屋。その中でコピー機が忙しくカシャカシャ音を立てている。その前で背の高い丸椅子に座った一人の老人。身長は170cmぐらいだろうか?ジーパンにサンダルといった飾らないカッコウ。髪は白髪、しかし眼光は鋭くちょっとやせ気味のスタイルとあいまって、この老人を大きく見せている。名前はCANJIQUINHA、市役所の職員でコピー機をまかされ、一日中このちっぽけな部屋にいる。しかしこれは彼にとって何の意味も持たない生活のための仕事、実は彼こそがBRASILCAPOEIRAの伝統を受け継いでいるただ一人の人なのである。そう思って部屋の中を見ると壁という壁は、彼の新聞や記事やポスターで埋まっている。新聞の記事は世界各国あり、彼が若いとき世界をCAPOEIRAのショーで回ったときのものである。BRASILは貧しい国、コピー機は重宝され、おまけに1台の値段も高いこともあってか、この市役所では何人もの列ができている一人一人が100枚、200枚のコピー、大変な仕事だ。



 そのちょっと途切れた合間に彼は僕の顔を見、いきなり歌を歌い出した。彼の手は机をたたき、爪の音と手のひらの音を巧みに使いCAPOEIRAのリズムをたたき出していく。そのリズムの素晴らしいこと!思わず目の前にCAPOEIRAの踊りが浮かんできた。ジワーっとするものが僕の心の中に溢れてくるのを感じ、初めてBRASILにいる実感がわいた。一曲終わると、彼は笑いながら僕に聞いた。「どう私の声は美声か?歌は最高か?」「もちろん最高です。」すかさず答えた僕の声はうわずっていた。「あなたの声を聞いてやっとBRASILにいる実感がわきました。そしてあなたの人生が見えたような気がします。」そう答えたら、彼は喜びまた両手を広げて歌い出した。続けて二曲。どの曲も最高!ますます目の前のCAPOEIRAの踊りがはっきり見えてきた。すごい!!これがBRASILだ!僕はさっそく明日CANJIQUINHAのアカデミーに行く決意をした。


 今回で二回目のBRASIL、7年前にこのサルバドールではじめてCAPOEIRAを見、感動!その直後に買ったBerimbauを日本で7年間引き続け、もう一度自分の目でCAPOEIRAを見たく、また自分のBerimbauBRASILの人たちはどんな感じで受け止めてくれるのか?そんな思いで、またこのバイーアの地を踏んだ。7年前と同じく建物はそこにあり、中世ヨーロッパを思わせる町並みには、バイーアの夏風がやさしく吹いていた。一見何も変わっていない町並み、でも何かが変わっていた。道を歩き5分も経たないうちに僕にはそれが分かった。町を行き交う人達に笑いがないのである。ここ3、4年バイーア、いやBRASILは、確実に治安が悪くなっていた。外でカメラすら撮れない状態である。事実、僕もサルバドールに着いた初日、野外でバテリア(パーカッションのグループ)のショーを見ていたとき、ピストルを持った二人組につけられた。それを見たバイーアの友達がうまく僕を誘導してくれ事なきを得た。今おそらく、BRASILでも特に治安が悪い場所であろう!ここ3、4年のインフレは貧しい人達から、たった一つの素晴らしい笑顔を奪い去ってしまった。



 そのこともあり、僕はサルバドールに着いた翌日から、現地で服を調達しに走った。シャツ、パンツ、短パン、サンダルすべてバイーアのものを身に着け、ミラーサングラスをかけBRASILの焼けるような暑い日差しで3日もするとバイーアの人間になった!



 その格好で翌日、彼のアカデミーを訪ねた。サルバドールの中心よりタクシーで40分、小さな町に彼のアカデミーがある。アパートの空き地にある建物、縦20m、横10mぐらいであろうか?日本でいえばアパートの集会室といった感じ?・・・・夕方6時30分ぐらいにCANJIQUINHA自身の手で門が開けられ、彼がBerimbauの弦を張り、タイコの調節をしている間30分ぐらいの間に、生徒が大きな声で「ボア・ノイチ(今晩は)CANJIQUINHA」と言い集まってくる。皆礼儀正しく、僕にも必ず「ボア・ノイチ」と声をかけてくる。1時間もすると生徒の数は50人にふくれ、準備運動が始まり熱気がでてくる。週2回月謝は、月わずか日本円で10円ぐらい。その月謝すら払えない生徒がいっぱい・・・・でも彼はそんなことで怒らない。むしろその生徒たちにギャグを言う。「君達がCAPOEIRAうまくならないのは、月謝を払わないせいだよ!」みんな大笑い!ホントに明るいアカデミーだ。これもCANJIQUINHAの人柄の良さだろう。とにかく明るい。ギャグを言っていたかと思うと、大声で両手を広げあの美声で歌う。と思うと、LESSONでは真剣に怒る。もし僕がこの地でCAPOEIRAを習っていたら、きっと彼に死ぬまでついていっただろう・・・・さ、準備運動も終わりいよいよLESSON、とたんに皆真剣になり目が輝く。CANJIQUINHAのあの美声とともにBerimbau、タイコ、パンデイロが鳴り響きCAPOEIRAが始まる。常に二人のペアが円の中、ジンガというベースになる動きで相手との呼吸を合わせ、アタックディフェンスを繰り返していく。リズムはAngola Sao Bento GrandeCavalariaと変化していく。いつの間にかリズムは速くなりヘージョナウという立ち技に移っていく。円の周りを取り囲んだ生徒たちは、CANJIQUINHAの歌を追うかのごとく活発な歌をCAPOEIRAのリズムに乗せていく。すごい熱気だ!1時間半ぐらいブッ続けに続くLESSON、彼らの着ている白のTシャツ、白のズボン、神技的な動き、CAPOEIRAは何と神聖なものだろうか!

 
 16世紀アフリカからバイーアに奴隷として渡ってきた黒人達が、夜ごとCAPOEIRAという背の低い木が生い茂る沼地で練習したという格闘技。そのせいもあって低い姿勢からの攻撃が多い。低い姿勢で見つからないように練習したのであろう!その技は目を見張るばかりだ!時々電気を消しての、激しいTEMPOCAPOEIRA……しかし明るいときと全く変わらないその動きは芸術的であり、すごいの一言!おそらく彼らは間合い、呼吸を全部肌で感じているのだろう……



 前回’85年このサルバドールで感じたことは間違っていなかった。これがBRASILなのだ。そしてこの先生こそが本当のCAPOEIRAを伝えるただ一人の人なのだ……僕はBRASILの歴史をみているのだ……感動と一言で言ってはあまりにももったいない気がする。目の前のCANJIQUINHABerimbauをタタキながらの歌、パンディロのリズム、生徒達の熱気溢れる掛け声、そして何も無駄のない神業的な動き、どれもが僕に語りかけ生きる素晴らしさを教えてくれる。人間が生きているという事は、何と素晴らしく尊いことなのだろう……そんな思いが僕の心を駆けめぐっているとき、一つのアクシデントが起きた。



 彼がある黒人の生徒の背中にのり、技の指導をしていたときのことである。生徒がちょっと動いた拍子に、CANJIQUINHAがコンクリートの床に、わき腹から落ちてしまったのである。鈍い音がした。一瞬アカデミー全体に緊張が走った。誰もが青ざめた。BRASILが青ざめた。しかし直後彼は何もなかったのごとく笑いながら起きジョークを言った。みんな、その笑顔を見ホットし、アカデミーは和み、BRASILが和んだ。良かった……そしてそのまま、CANJIQUINHAは何事もなかったようにBerimbauを超人的なリズムで打ち出し、LESSONは再スタートした。


 その後、あの熱気のLESSON30分くらいで終了した。その途端、彼の顔は苦痛で歪み、僕の前に来て床で打った右手を見せてくれた。何と腕が1.5倍の太さに青くハレているではないか?この手であのBerimbauを?信じられなかった……神様といえども70才近い老人。すごい痛さだったと思う……何事もなくLESSONを続けたすごさ……同じBerimbauを弾く僕には、とてもまねのできない……彼のLESSONに対する姿勢、人柄そのものだと思う!間違っていない、この先生は、最高のCAPOEIRAの先生だ!目の前でその人を見ている。これだけのことを僕は誇りに思った。彼は痛い腕をさすりながら僕に聞いた。「どうだった?CAPOEIRAは?」MUITO BOM最高だった。僕はCANJIQUINHAあなた自身に感動したと言った。次のLESSON日、金曜日も来る約束をした。



 その夜のバイーアは、一段と星が宝石のように光輝いた!まるで一つ一つがアクアマリン(BRASILの石)のようだった。


 さて、LESSON日金曜日がきた。今日もBRASILバイーアは快晴、そしてBRASILの風がやさしく吹いていた。朝からBerimbauを買ったり、お土産を買ったり忙しかった僕は、630分が待ちきれなく少し早めにアカデミーへと向かった。途中、タクシーの中、「ああ、あのCANJIQUINHAに会える!またあの笑顔が見られる……。それだけでHAPPYになっていた……さあ、アカデミーだ!」CANJIQUINHAは笑いながら僕を迎えてくれ、神様のLESSONが始まった。まだ痛いだろう右手で、彼はBerimbauを教えてくれた。彼の打ち出すBerimbauのリズムは軽い。どんなに早いTEMPOになってもその軽さは変わらず、そのバチさばきはどこをとっても無駄がなく、きれいな放物線を描いていく。ひょうたんの使い方も素晴らしく、前ではなく上下するように見える使い方、これがあのCAPOEIRAの独特のリズムを打ち出す。あっという間の30分が過ぎた。


 ふと気がつくと回りに生徒が何人も来ていて、「MUITO BOM. MUITO BOM」と握手を求めてきた……彼もすごく喜んでくれ、みんなすっかり親しくなった。おそらく日本人がこんなにもBerimbauを弾けるとは思ってもみなかったのだろう……


 Berimbau7年間弾き続けホントによかった。つくづくそう思った。その後のCAPOEIRALESSONでは、CANJIQUINHAの一声で、僕も簡単な踊りを踊ることとなった。黒人達の中、少々恥ずかし気味の日本人が踊った。1時間30分があっというまに過ぎ、あたりはもうすでに真っ暗になっていた。


 LESSON終了後、フーッとため息をついていると、CANJIQUINHAが近づいてきた。一枚のコインを僕にくれるという?僕に?信じられなかった。彼が初めてヨーロッパをCAPOEIRAのショーで回ったとき、Berimbauの石の変わりに使ったスペインの銀貨。そのコインを僕にくれたのだ。フチにはBerimbauの弦があたったのだろう。傷がいっぱいついていた。おそらく思い出もいっぱいついているに違いない……彼は言った!「絶対失くすなョ!これは一つしかないのだから……」最高のプレゼントだ。Muito obrigado CANJIQUINHA


 海の向こうでは、今日もCANJIQUINHAが冗談を言いながらCAPOEIRAを教えている。フト目の前のコインが微笑んだ。


「どう私の声は美声か?歌は最高か?」またCAPOEIRAの歌が聞こえてきた。

 (おわり)