カポエイラ研究室

■このコーナーでは、カポエイラに関する「ちょっと専門的な話」「マメ知識」などを紹介していきます。
■掲載記事に関する質問は、掲示板にスレッドを立ててください。
■自分も記事を投稿したいという方は久保原あてにメールで送ってください。大歓迎です!待ってます!
ブログ「Roda de Papoeiraにも似たような記事を書いています。こちらもご参考ください。
TOP

  【目次】
 12. ビリンバウの木はビリーバだけ? / 11. コイテを知っていますか? / 10. これが本物のドブラゥンです / 9. チクンを知っていますか? / 8. カポエイラ楽器の郵便切手 / 7. ビリーバを知っていますか? / 6. 8月3日は「カポエイリスタの日」 / 5. 「カポエイラが足を使うのは、奴隷たちが手を鎖でつながれていたから」は真っ赤なウソ / 4. カンジキーニャ出演のカンヌ受賞映画の邦題は「サンタ・バルバラの誓い」 / 3. メストリ・ビンバのbimbaはオチンチン! / 2. サンパウロのカポエイラ part.1 / 1. 伝説のカポエイリスタ、ビゾウロは実在した

























































































































































































































































































































































   

12:ビリンバウの木はビリーバだけ?

 ビリンバウを作るのにふさわしい木というと、まず真っ先に思い浮かぶのがビリーバ(biriba)ですよね。実際、ブラジルでカポエイリスタたちに同じ質問をしてもほとんどの人たちがビリーバだといいます。しかし裏を返せば、多少年季の入った人かそれなりの関心を持って調べている人でない限り、ビリーバ以外の木の名前を知っている人のほうが少ないのです。

 これは詳しく調べないといい加減なことはいえませんが、いつごろからかどういう理由からか、ビリーバだけが急に有名になってしまったんですね。これはまだほんの最近のことだと思われます。カポエイラ関係の少し古い資料をめくってビリンバウに関連するところを見渡してみても、ビリーバという名前はほとんど見かけません。そのかわりにグアタンブー(guatambu)、タイポッカ(taipoca)、パウ・ペレイラ(pau-pereira)といった名称が見られたりします。

 ここでは今日バイーアのサルヴァドールで使われている、ビリンバウによいとされている木を紹介したいと思います。


 →カポエイラ・ブログ「Roda de Papoeira」に関連記事

 写真が小さいこともあって、みんな同じに見えるかもしれませんが、左からビリーバ、コンドゥルー、マサランドゥーバ、タイポッカです。

 以下にそれぞれの拡大写真を載せましょう。
 これが知名度ダントツのビリーバ(biriba)です。

 ビリーバは確かにすばらしい木ですが、他の木に比べて重いのが難点です。重ければそれだけ操作性は鈍りますからね。たとえばサンバの世界ではパンデイロのジングルをアルミ製に交換したりして、ほんの数十グラムの単位で軽量化を図りますが、カポエイリスタはその点鈍感なようで、小指がちぎれるような重たいビリンバウを何の疑いもなくありがたがっていますね。

 生えているビリーバに関心のある人は、カポエイラ探検隊2005のときに行った「ビリーバ狩り」の報告も見てください。
 これはコンドゥルー(conduru)という木で、ビリーバよりずっと軽量ですが、ビリンバウの素材としては加工のしやすさといい弾力性といいすばらしい性能を持っています。グンガからヴィオラまで、高品質な音を追求することができます。

 私の親しいメストリの中ではメストリ・ジャイメ・ド・マル・グランジ(Mestre Jaime do Mar Grande)がコンドゥルー製のビリンバウが大好きで、彼のビリンバウはほとんどコンドゥルーです。
 

 私も昨年バイーアに行ったときにたくさん持って帰ってきました。
すでにすごい音のが何本もできましたよ。
 これは上のコンドゥルーと一見そっくりなのですが、マサランドゥーバ(massaranduba)という木です。カポエイラの歌にもありますよね、
  madeira de massaranduba 〜
  madeira de jequitiba 〜
聞きたい人はメストリ・ボカ・ヒーカのCDがおすすめです。

 私個人的にはまだあまりなじみのない木なので、ビリンバウのヴェルガとしてどの程度の性能を持つかはよく分かりません。

 アタバキの樽木にもよく使われますね。

 
 こちらは一見ビリーバと見間違えやすいですが、手にとって見ればすぐ分かります。超軽量なんですね。タイポッカ(taipoca)という木です。サルヴァドールでも容易に入手できます。

  本当に軽量なので、ビリンバウ初心者の方で、持つ手がすぐ痛くなってしまうという人にはお勧めだと思います。

 ただ軽い分、少々弱いようなので、弦を張るときには少しずつジワジワとしならせるのがポイントです。一度にガッと行くと折れてしまう危険性があります。


 上に見たもの以外にもいろいろありますよ。
カンデイア(candeia)という木もビリーバより軽く、弾力性、復元力ともに抜群で、私は大好きです。サルヴァドールではパウ・ダルコ(pau-d' arco)とかアラサー(araca)などもよく知られています。

 日本のホームセンターに売られている竹でも、結構いいビリンバウが作れるんですよ。

 ビリンバウを選ぶときには、木のブランドにとらわれず、音質第一で選ぶのが賢明だといえますね。



 →ビリンバウを買いたい人は「カポエイラ・ショップ ビリンバウ」


TOP
目次へ戻る

11:コイテを知っていますか?

 ビリンバウの共鳴箱として最も有名なのは言うまでもなくカバッサですが、実はこれだけじゃないんですね。初心者の方は、気が付いていないだけで、しばしば使っていたりするのがコイテ【coite】です。カバッサとの最大の違いは、カバッサが蔓になるのに対し、コイテは木になるという点です。カバッサがスイカなら、コイテはさしづめリンゴですね。

 →カポエイラ・ブログ「Roda de Papoeira」に関連記事

 ビリンバウに使えるように仕上げられたコイテたち。殻はカバッサより硬質で、割れやすいです。きれいに磨かれたものは、プラスチックと間違えるかもしれません。

 左の写真は、パーカッショニスタのハミロ・ムソット【Ramiro Mussoto】の自宅でビリンバウ・オーケストラのリハーサルをしたときに撮影させてもらったものです。

 彼は自分のビリンバウにはコイテしか使用しません。理由はお腹に付けたり離したりするときに得られる「ワウワウ効果」が、コイテのほうが格段に大きいからです。なぜなのか分かりませんが、私も試した結果、確かにそう感じました。余韻がずーっと伸びる感じです。

 コイテの中を見たところ。カバッサよりもつるりとしていますね。これでも特別な処理はしていません。

 もっとも殻が硬質な分、カバッサよりも加工は厄介です。カバッサならよく研いだナイフで切ることもできますが、コイテはのこぎりでないとまず無理です。

 底に見えるのは、紐が殻に食い込むのを防ぐための皮片です。カバッサにもこれをするといいですよ。


 加工する前の生のコイテ。大小、大きさもさまざまです。きれいなタマゴ形をしていて、カバッサのような「くびれ」はありません。

 重さは非常に重いです。小さいものでもずっしり感がありました。

 コイテの熟れ具合を知りましょう。

 左の緑のものはまだ若い状態。本当はこの段階で採るのはよくないらしいです。右に行くにしたがって熟れています。上の写真にもあるように、最終的には皮が硬くなって、色も真っ黒になります。
 コイテの拡大図。きれいですね。

 でもこれが臭うんです!

 中を切ってみると、若いときはヘチマやヒョウタンと似ていますね。中のタネは、セメダインのようなツンとした臭いがします。窓を締め切って作業をしていると、本当にシンナー中毒になるような気がしました。

 写真にはないんですが、これが乾燥すると中もカリカリになって、簡単にかき出せるようになります。
 こちらはおなじみのカバッサです。私たちが良く知っている日本のヒョウタンと違って、タマゴ型ですね。

 写真にあるような赤みがかったものは、たいてい肉厚でビリンバウにはあまり適さないことが多いです。シェケレなどの楽器やその他の工芸品用に買われていきます。もちろん、中にはビリンバウ用に使えるものもありますから、スイカを選ぶように、ひとつずつからを指ではじいて選んでいきます。



 コイテを共鳴箱としてビリンバウを作ろうとすると、なかなかぴったり来るヴェルガが見つからないな、というのが私の経験です。ペロウリーニョの楽器職人のジーニョさんによれば、「ビリーバとコイテの相性は良くない。コイテにはカンデイア(別の木の種類)しか合わないんだ」と言いますが、真偽のほどは分かりません。実際、ハミロはビリーバを使って、オーケストラ用の素晴らしいビリンバウを作っていますし、探せば見つかるということでしょうね。

TOP
目次へ戻る

10:これが本物のドブラゥンです

 今日、カポエイリスタにとってドブラゥンというと、ビリンバウを弾くときに使うコインを意味しますが、もともとの正体は帝政時代のブラジルで流通していた硬貨です。そもそもドブラゥンというのは、このような古い硬貨の総称だったのですね。

 40ヘイスの表です。

 この写真だと小さくてわかりにくいですが、時計で言えば8時のあたりに、「1832」という年代が見えます。


 直径は約4センチ。厚みは2ミリ程度です。

 40ヘイスの裏
 80ヘイスの表。

 40ヘイスとともによく利用されたのが80ヘイスでした。年代は消えて見えないですね。

 80ヘイスの裏
 下の写真で左下にあるのは、真鍮のバーを切って作ったドブラゥンのイミテーションです。といっても今日ドブラゥンといえばこれが主流ですけど。上のは普通の石です。

 だいたい質感の違いが伝わるでしょうか?やっぱり本物は少し薄くて、弱々しい感じはしますね。


  ドブラゥン(イミテーションの方です!)を買いたい人は →こちら

TOP
目次へ戻る

9:チクンを知っていますか?
 
 
 Mataram Besouro em Maracangalha
 Com faca de tucum mandinga falha
マラカンガーリャでビゾウロは殺された
トゥクンで刺されて、マンジンガが破られた

 チクン(ticum)は、トゥクン(tucum)としても知られている、非常に硬質な木です。チクンで作られたナイフは、その昔、カポエイリスタたちのマンジンガ(身を守る魔術)を破ると信じられていました。伝説のカポエイリスタ、ビゾウロの死因もチクンのナイフの威力であったと言われています。

 おなじみチクンのバケッタ(ビリンバウを叩くバチ)ですね。サルヴァドールでもイタパリカ島に行かないと採れないため「高級品」として扱われています。

 サンパウロなどでも、カポエイラ・ショップにいけば売ってはいますが、一般のカポエイリスタは竹などを削ったものをバケッタとして使っています。

 バケッタを買いたい人は →こちら

 
 これがチクンの原木です。鋭いとげに覆われているのが分かるでしょうか?その辺のサボテンなんかよりも、ずっと恐ろしいです!

 撮影用に木の表面を剥ぎ取ってあります。中から黒い肌が現れました。(この木は伐採予定のもので、切る前に撮影させてもらいました。むやみに木を傷つけているわけではありません)

 切り出された断面。太さはだいたい8センチから10センチくらいでした。
 断面の拡大図です。真ん中の白い部分は、柔らかい繊維です。バケッタとして使われるのは、目の詰まった外側の黒い部分ですね。だから量的にもあまり多くは取れないんです。
 こんな形で船に載せられ、サルヴァドールに運ばれます。

 とはいえこの形でチクンを目にすることは非常に珍しいです。多くの場合は、すでに加工されて店頭に並んでいるものしか見ることができません。


 




TOP
目次へ戻る

8:カポエイラ楽器の郵便切手

 今回のブラジル旅行(2005年11月)で、仲間の一人がブラジルの切手をお土産に頼まれたと言いました。そこで郵便局に行って、販売中のすべての柄を見せてもらったときに、たまたま発見したものです。シールになっているので、裏に唾をつける必要はありません。2002年に発行されたものですね。

 ビリンバウのものが1レアル、パンデイロが50センターヴォ、アタバキが1センターヴォとなっていますから、金額の比較で言うとパンデイロはビリンバウの半分の価値、アタバキにいたってはビリンバウの100分の1、パンデイロの50分の1という価値です。カポエイリスタにとってはこの順番で問題ないでしょうが、アタバキを神聖な楽器とするカンドンブレの人たちからみれば複雑な気持ちになるかもしれませんね。




 現在ブラジルにいる人たちは、日本のカポエイラ仲間に手紙を送るとき、こんな切手を貼ってあげたら喜ばれるのではないでしょうか。


TOP
目次へ戻る

7:ビリーバを知っていますか?

 
biriba e pau, e pau
 para fazer berimbau, e pau

 biriba e pau, e madeira
 madeira para tocar


 「その木はビリーバですか?」ちょっと知識のあるカポエイリスタがビリンバウを買うときにするおなじみの質問ですね。メストリ・ビンバがドキュメンタリーの中で、「ビリンバウを作るにはビリーバがもっともふさわしい」と言ったり、あるいは多くの歌の中にも繰り返し登場するので、「ビリンバウといえばビリーバ製でなくっちゃ」というイメージがすっかり定着しています。

 ところでみなさんはビリーバの木を見たことがありますか?私も実際どんなところに生えていて、どんな枝ぶりなのか、原木を見たことがありませんでした。そこで今回(2005年11月)のブラジル旅行を利用して、ビリーバを切り出す現場を同行取材しました。まとまった記事は別の機会に譲るとして、ざっと写真を紹介しましょう。

 サルヴァドールからイタパリカ島にフェリーで渡り、そこからさらに車で走ること1時間。さらにそのあと小さなボートに乗って川を上り、山の中へ入っていきました。

 このようなアクセスの不便さもあって、普通サルヴァドールでビリンバウを作っている職人もメストリたちも自分でビリーバを切りに行くことはまずありません。すばらしいビリンバウを作る職人がビリーバの生えている現場を見たことがないというケースも決して珍しくはないようです。

 そういう意味でも今回は非常に貴重な体験をすることができました!一緒に行ったヴィアグラ、モランゴ、ガルソンの3人はラッキーでしたね。

 
 ビリーバの株。太いの、細いのいろいろあります。ビリンバウに適当な太さのものだけを選んで切ります。
 ビリーバの株。もちろん自然の木ですから、曲がったもの、ねじれたもの、形もさまざまです。
 ビリーバを切り出しているところです。かなり高い木なので、根元から切った後、2メートル弱のところで頭を切ります。
 そのあとで余分な横枝を落として、まっすぐにします。まっすぐというのはビリンバウ作りの条件としては重要ですね。
 切り口は必ず斜めにします。こうすると再生が早いのだそうです。ビリーバを採り続けられるためにも、このような配慮は欠かせません。

 この10年ほどビリンバウのためにビリーバが乱獲され、実はIBAMA(ブラジル環境協会)という政府機関がビリーバの伐採を禁じているのです。実際問題、真剣に取り締まろうと思えばメルカード・モデロの商人たちとそのバックにいる委託伐採者たちを一網打尽にすることはたやすいと思うのですが、まだそこまでの徹底振りはないようです。

 それでも今回の取材のときも、スタッフはIBAMAの車を見てビビッていました。同業者の中には職員にいくらか払って見逃してもらっているケースもあるようだと言っていました。
 ビリーバの子供。これが数年かかって、前の写真のような大きさに育ちます。
 本邦初公開!?

 ビリーバの花です。高いところのものを下から望遠で撮影したので、ちょっと見にくいかもしれませんが、黄色い花とつぼみが分かるでしょうか?
 切り出したビリーバは地面に寝かせておいて、一行はどんどん奥へと進んでいきます。季節によっては蛇やハチがいるので危険だそうです。あと注意が必要なのがチリリッカという草。カポエイラの歌にもありますよね、

  tiririca e faca de cortar
  (チリリッカはよく切れるナイフだ)

 これは肌によく引っかかって、取り方に気をつけないと鋭く腕を切ります。
 切り出したビリーバを担いで林の外へ運びだします。切り立ては水分を含んでいるだけに、結構重いです。



 下は本数ごとに束ねて縛っているところ。

 今回の取材に協力してくれたスタッフに感謝!

 赤いシャツがヴァウミール(
Valmir)。彼は下の写真にある露店の主です。彼のお父さんヴァウジミロはイーリャ・ジ・イタパリカからビリーバを切り出して売り始めたパイオニアで、サルヴァドールのメストリたちの間では知らない人はいない有名人でした。

 黒いシャツがメストリ・クリオ(
Mestre Curio)。現地でビリーバを切り出して、ヴァウミールに供給している責任者です。今回は奥さんにもおいしいお昼をご馳走になり、とてもお世話になりました。
 サルヴァドールの下町にあるメルカード・モデロ前の露店です。切り出されたビリーバはこういう状態で売られています。

 ここには自分でビリンバウを作りたいカポエイリスタからビリンバウを作って土産物屋に卸売りしている職人、有名なメストリたちまでさまざまな人が訪れて、自分だけの1本を念入りに選んでいきます。

 いかがでしょうか?なんとなくイメージはお分かりいただけるでしょうか?実際にはもっといろんな写真があって、ビデオも撮ってきたんですが、スペースの関係上ここでは紹介できないのが残念です。

 最後にほかの木の名誉のためにも記しておかなければなりませんが、ビリンバウに適している木はなにもビリーバだけではありません。今回の取材でも目にしたカンデイア、タイポッカ、アラサも非常にいい木ですし、その他にもパウダッコ、カンドゥルーなどが知られています。ビリーバは名前が売れてしまっただけにこだわる人が多いですが、実際にビリンバウを選ぶときは何よりも音を聞いて偏見を持たずに選びたいですね。

TOP
目次へ戻る

6:8月3日は「カポエイリスタの日」

 知りませんでしたが、8月3日は「カポエイリスタの日」だそうです。1985年8月7日にサンパウロ州政府によって「8月3日をカポエイリスタの日と制定し、毎年これを祝う」と定められたそうです。
 次のようなメールが届いたので知りました。


Lei no 4.649, de 07 de Agosto de 1985 Institui o "Dia do Capoeirista", a ser comemorado anualmente, no dia 3 de agosto, O GOVERNO DO ESTADO DE SAO PAULO: Faco saber que a Assembleia Legislativa decreta e eu promulgo a seguinte Lei: Artigo 1o - Fica instituido o "Dia do Capoeirista", a ser comemorado, anualmente, no dia 03 de Agosto. Artigo 2o - Esta Lei entrara em vigor na data de sua publicacao. Palacio dos Bandeirantes, 07 de agosto de 1985. FRANCO MONTORO Publicada na Assessoria Tecnico-Legislativo, aos 7 de agosto de 1985.

TOP
目次へ戻る

5:「カポエイラが足を使うのは、奴隷たちが手を鎖でつながれていたから」は真っ赤なウソ

 
もうそろそろ日本のカポエイラもこの俗説の呪縛から自由にならなくちゃいけない時期ですね。日本でこの説が広まったのは、おそらく梶原一騎のマンガ『空手バカ一代』の影響が大きいのだろうと思いますが、歴史的にはまったくの事実無根です。逃亡奴隷たちが森の中に築いたキロンボでも、追っ手の襲撃があると、刃物は言うまでもなく、銃さえも使用していたといいます。身を護ろうと思えば武器を使えたわけですね。

 サトウキビ園で働かされていた奴隷たちには、歌を歌ったり、ダンスをしたりできる自由時間もありました。さらには町に行けば日雇いの奴隷(escravo de ganho)というのがいて、文字通り、その日ごとに違う仕事を請負っては、収入の一部を主人に渡すという人々でした。現在の研究では、このような都市部にいた、比較的自由の多かった奴隷たちがカポエイラの形成に大きな役割を果たしたのだろうと考えられています。

 カポエイラが足を中心に使うのは、手が使えないという制約された条件からきているのではなく、そのルーツと考えられているアフリカの格闘技がすでに足技中心の形式を持っていたようです。

TOP
目次へ戻る

4:カンジキーニャ出演のカンヌ受賞映画の邦題は「サンタ・バルバラの誓い」

 メストリ・カンジキーニャがカポエイラのメストリで出演した「パガドール・ジ・プロメッサス(O Pagador de Promessas)」(アンセルモ・ドゥアルテ監督)は、1962年カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに輝きました。カンヌで最高賞を取ったのは、ブラジル映画史上、あとにも先にもこの映画だけです。

 ここに登場するカポエイラはカンジキーニャらしいすばしっこいアンゴラで、当時のカポエイラの多様性を知る上でも非常に興味深いです。また映画のラストに響き渡るビリンバウの音色が、いつまでも心に残ります。

 なんとこの映画は邦題「サンタ・バルバラの誓い」として日本でも
1965年に公開されていました。いろいろ調べてみたけど、レンタル・ビデオはおろか、アマゾンなんかでも入手は困難なようです。

TOP
目次へ戻る

3:メストリ・ビンバのbimbaはオチンチン!

 メストリ・ビンバのあだ名の由来を知っていますか?本名はマヌエル・ドス・ヘイス・マシャード、189911月23日生まれ。生まれるときにお母さんと産婆が賭けをしました。お母さんは女の子だといい、産婆は男の子だといいました。結果はお母さんの負け。出てきた赤ちゃんを見た産婆が「ビンバ!」と叫んだかどうかは知りませんが、ここからあだ名が付いたそうです。bimbaとは子供のオチンチンの意味です。

TOP
目次へ戻る

2:サンパウロのカポエイラ part.1

 いくつかの資料によると
19世紀のサンパウロにもカポエイラが存在していたことがうかがえる。カポエイラを禁じる条文が残っているからだ。1889年に刑法でカポエイラが禁止され、リオを中心にカポエイラに対する激しい弾圧が始まった。1890年代にはリオのカポエイラの集団がサンパウロのボツカツ(Botucatu)に流刑にされたこともあるらしい。そこは鉄道の終着点であり、文明の行き届かない地であった。しかし1948年、ビンバの弟子だったメストリ・ダミアン(Mestre Damiao)がサンパウロを訪れたときには、そのような前世紀のカポエイラの痕跡は何も見られなかったという。

メストリ・ダミアン メストリ・ダミアンは、友人の事業家を説得し、1949年、メストリ・ビンバとその弟子たちを呼んでショーを行った。この企画はパカエンブーのスタジアムが一杯になるほどの大盛況に終わった。当時のサンパウロでは、レスリングがアトラクションとして人気絶頂の時代だった。そこで事業家らはカポエイラとレスリングの異種格闘技戦を企画して、観客を集めようと提案した。試合といっても、あくまでも興行としての見世物で、真剣勝負ではなかったが、これを聞いたメストリ・ビンバは、「勝負は真剣勝負以外ありえない」と、憤慨してサルヴァドールへ帰ってしまったという。

 その後ダミアンは、キッド・ジョフリー(軽量級で2階級制覇した世界チャンピオン、エディー・ジョフリーの父)のボクシング・ジムでボクシングを習いながら、同時にカポエイラを教えていた。これは5111月、勤めていた空軍学校をグアラチンゲターに転任するまで続けられた。そして1971年、サンパウロ州サン・ジョゼ・ドス・カンポス市にビゾウロ・マンガンガー道場を設立し、ロバゥン(Lobao)をはじめとするメストリ・スアスナの弟子らとともにパライーバ渓谷におけるカポエイラの普及に努めている。

メストリ・アナニアス 1953年にはメストリ・アナニアス(Mestre Ananias)がバイーアからやってきた。アナニアスは1924年バイーア州サン・フェリックスの生まれで、メストリ・ジュヴェンシオ(Mestre Juvencioにカポエイラを習い始めたときには、まだツタを弦としたビリンバウが見られたという。サルヴァドールでは、ノローニャ(Noronha)、パスチーニャ(Pastinha)、ナジェー(Naje)、オンサ・プレタ(Onca Preta)、コブリーニャ・ヴェルジ(Cobrinha Verde)らと知り合い、ヴァウデマール(Waldemar)のホーダでは、ザカリアス(Zacarias)、ブガーリョ(Bugalho)、トライーラ(Traira)とともにバテリアの責任を任されたという。メストリとしての資格は、サンパウロに来たあと、カンジキーニャ(Canjiquinha)から与えられている。

 サンパウロに出てきてからは、ソラノ・トリンダージ(
Solano Trindade)のフォルクローレ・グループに参加し、カポエイラ、サンバ、カンドンブレのショーで全国をまわった。またアナニアスは、レプーブリカ広場のホーダの立役者でもある。毎週日曜日の昼下がりに行われるこのホーダは、今日までサンパウロの最も伝統あるホーダである。

 新聞記者だったアウグスト・マリオ・フェヘイラ(Augusto Mario Ferreira)は、サルヴァドールでビンバの修了生にもなっていた人物だが、彼も50年代にサンパウロでヘジオナウのレッスンを行っていたらしい。

 しかしレッスンとしてのカポエイラが本格化するのは、50年代の終わりにジョゼ・ジ・フレイタス(Ze de Freitas)がサンパウロに来てからだった。ゼ・ジ・フレイタスは、当初ブラス区にあるレスリングの道場に間借りしてカポエイラを教えていた。これと並行して彼は、やはりブラス区にあった市営交通公社(CMTC)のスポーツセンターでも教え始めた。これらの道場ではスアスナ、ブラジリア、ピナッチといった後にサンパウロのカポエイラの立役者になるメストリたちが訪れては親交を深めていた。

メストリ・スアスナ メストリ・ブラジリア

 ピナッチはサンパウロの出身で、もともとは空手の黒帯だった。ところがバイアーノたちが持ってきたカポエイラを見たとき、熱狂的な興奮を覚えたという。彼は自宅の一部をブラジリアとスアスナに提供し、そこでカポエイラを教えるように勧めた。この道場は、ACRESPAcademia de Capoeira Regional de Elite de Sao Pauloカポエイラ・ヘジオナウ・サンパウロ・エリート道場)と命名され、役所に登記されたカポエイラ道場としてはサンパウロで最初のものだった。

 ヴァウデマール・アンゴレイロ(Valdemar Angoleiro)も当時グループを作ったパイオニアの一人だ。洋服の仕立て屋で画家でもあった彼は、兄でカンドンブレのオガゥンでもあったメストリ・ボリーニャのサポートを受けて、ベラ・シントラ道場(Academia de Bela Cintra)を設立した。しかし彼のその後の活動はほとんど分かっていない。

 1967年、アウグスト・マリオ・フェヘイラは、リオからやってきたパウロ・ゴメス(Paulo Gomes)と共同で、Centro de Capoeira Regional Ilha de Mare(イリャ・ジ・マレー・カポエイラ・ヘジオナウ・センター)を開いた。アウグストがマスコミに通じていたこともあり、彼らの活動は常にメディアに大きく取り上げられた。彼らが開催したサンパウロで最初の「バチザード」は、サンパウロ中のほとんどのメストリたちの参加のもと大成功を収めた。この様子はTVグローボの看板番組「ファンタスチコ」でも紹介され、サンパウロのカポエイラの大衆化に大きな役割を果たした。

 この当時、サンパウロでカポエイラの道場を経営していくのは容易なことではなかった。柔道、空手、レスリング、ボクシングなどさまざまな道場がひしめきあう大都会にあって、「バイーアの」「ネグロの」という冠のつくカポエイラは差別的な視線で見られていた。今日、ブラジルを代表するグループの一つに成長したコルダゥン・ジ・オウロのメストリ・スアスナも、「あの頃は一日中道場にいて生徒を待っていたが、誰も現れなかった」と回想する。ひとりでも来客があると、それこそ神様扱いだったそうだ。しかし一連のイベントやメディアによる報道で、状況は少しずつ変わり始める。

 1970年にはサンパウロのカポエイラの第1世代がだいたい出揃っていた。11人のメストリが9つのグループで活動していた。すなわち、カポエイラ・フレイタス(Academia de Capoeira Freitas : Mestre Ze de Freitas)、 ベラ・シントラ(Academia Bela Cintra : Mestre Valdemar)、イリャ・ジ・マレー( Centro de Capoeira Ilha de Mare : Mestre Paulo Gomes, Augusto)、コルダゥン・ジ・オウロ( Cordao de Ouro : Mestre Suassuna, Mestre Brasilia,)、サン・ベント・ピケ−ノ(Sao Bento Pequeno : Mestre Pinatti)、カ・ポエイラ( K-poeira : Mestre Acordeon, Mestre Airton Onca)、イリャ・ジ・イタポアン( Ilha de Itapoa : Mestre Joel, Mestre Gilvan,)、ヴェラ・クルィス(Capoeira Vera Cruz : Mestre Silvestre,)、キロンボ・ジ・パウマーリス(Quilombo dos Palmares : Mestre Limao)である。


 これらのメンバーが持ち寄ったカポエイラは、その出自もスタイルもバラバラだった。アンゴラ系としては、ブラジリアがカンジキーニャの弟子、リマゥンとシウベストリはカイサーラの弟子だった。スアスナはバイーア南部のイタブナ出身で、アンゴラをメストリ・スルル(Mestre Sururu)に学び、その後ビンバの生徒についてヘジオナウを学んだ。アイルトン・オンサとアコルデオンはビンバ直系のヘジオナウである。ジョエルもビンバの道場に籍を置いたことがある。パウロ・ゴメスは、もともとバイーアの出身だが、リオにいるときにアルトゥール・エミジオ(Artur Emidio)の弟子になった。アルトゥール・エミジオもリオに移ったバイアーノだが、彼のスタイルもまたアンゴラともヘジオナウとも割り切れないものだった。

 当時のサンパウロは、リオ以上に北東部からの移民を惹きつけていたという。メストリ・ブラジリアも証言するように、ほとんどのカポエイリスタたちはカポエイラを職業にしようと考えてサンパウロに出てきたのではない。それぞれよりよい仕事、より豊かな生活水準を求めて都会に流れてくるのだった。しかし日曜日にお互いの家や公園に仲間が集まれば、自然にサンバやカポエイラのホーダができた。それが彼らの遠い故郷をしのぶ盛り上がり方だったからだ。こんな流れの中で、レプーブリカ広場の伝統的なホーダも始まった。

 バイーアから出てきた「田舎者」たちが不慣れな大都会の暮らしで直面したさまざまな困難は、サルヴァドールで相容れなかったヘジオナウとアンゴラの対立を和らげることになった。カポエイラのスタイルだの何だのという前に、まず生き延びなければならなかった。そのためには同胞どうしの協力が欠かせなかったのだ。彼らのような北東部からの労働移民、とくにバイアーノたちはしばしば差別的な扱いを受けていた。それが逆にバイーア人としての内部の一体感を育てていく。とくにスアスナは、サンパウロにやってきた若いバイアーノたちを物心ともにサポートし、「北東部領事館」といわれた。

 ヘジオナウの流れを汲むスアスナとカンジキーニャの弟子であったブラジリアが共同で、コルダゥン・ジ・オウロを結成したのは象徴的である。サルヴァドールではとても考えられないようなコラボレーションが、サンパウロで実現したのだ。彼らは故郷やメストリの写真を壁に掲げた。この頃のカポエイラ・グループの名前を見ても分かるように、「イタパリカ島」「バイーア万歳」「バイーアのマンジンガ」「ペロウリーニョ坂」などバイーアにまつわる名前が圧倒的に多い。レチシア・ヘイスは、道場の中にバイーアの雰囲気を再構成しようとしていたのだと見る。

メストリ・ピナッチ 当然カポエイラのスタイルについてもさまざまな融合が行われた。ピナッチが1985年に亡くなったメストリ・リマゥンについて思い出を語るなかで、「わしとパウラゥンのジョーゴはとても速かった。わしらはアンゴラのジョーゴも好きじゃったが、実際にはなかなかついて行けなかった。そこでリマゥンがわしらに合わせて速いジョーゴをするようになったんじゃよ」と述懐している(pc6,p49)。リマゥンはメストリ・カイサーラのアンゴラ、ピナッチはサンパウロでカポエイラを始めたヘジオナウ系である。スタイルの違う仲間どうしが交流する中で、お互いに憧れあい、教えあいながら、サンパウロ独自のスタイルが確立されていった。それは誰かが故意に作り上げたものではなく、異郷に暮らすバイアーノたちの生活の中からにじみ出た自然な結果であった。

メストリ・カイサーラとメストリ・リマゥン メストリ・スアスナとジルセウ 1 メストリ・スアスナとジルセウ 2

 リマォンは69年、師匠のカイサーラをサルヴァドールから呼んで、レコードを録音した。それが現在でも一般のレコード店に流通している数少ないカポエイラCDのひとつ『Academia de Capoeira de Angola Sao Jorge dos Irmaos Unidos do Mestre Caicara』である。スアスナとジルセウが録音した3枚のLPも、70年代、80年代を通じて全国のカポエイリスタに多大な影響を与えた。彼らの作品が当時、ビンバやパスチーニャの作品以上に影響力を持ちえたのは、メディアにうまく乗れたという意味で、ひとえに文化的中心地であったサンパウロの利便性によるだろう。

メストリ・グラドソン リオにおける場合と同じように、カポエイラは高等教育を受けた中流層の若者をひきつけた。
60年代の後半、サンパウロ大学の学生たちにとってカポエイラはブラジル的なものを代表する文化になっていた。左翼のプロテスト・ソングを多く作ったジェラウド・ヴァンドレー(Geraldo Vandre)が「カポエイラは羽ばたく(Capoeira vai lutar)」を書いたのは1968年である。そして1972年、アイルトン・オンサの弟子であるグラドソン(Gladson)はサンパウロ大学の正課としてカポエイラを導入することに成功した。


(久保原信司)

TOP
目次へ戻る

1:伝説のカポエイリスタ、ビゾウロは実在した!

 メストリ・ビンバやメストリ・パスチーニャよりも古く、数々の歌や民衆の言い伝えの中にその武勇が語り継がれている伝説のカポエイリスタに、ビゾウロ(Besouro)がいる。


No estado da Bahia
Existia um cidadao

E por demais conhecido
Tudo mundo ja ouviu falar

E Besouro Manganga

E meu mestre ja ouviu falar
E Besouro Manganga
E Fulano ja ouviu falar
E Besouro Manganga
Eu tambem ja ouvi falar
E Besouro Manganga
Tudo mundo ja ouviu falar

バイーア州には
一人の人物がいた
その人はそれは有名で
誰もが聞いたことのある人だ


彼の名前はビゾウロ・マンガンガー
私のメストリも聞いたことがある
彼の名前はビゾウロ・マンガンガー
だれだれも聞いたことがある
彼の名前はビゾウロ・マンガンガー
私だって聞いたことがある
彼の名前はビゾウロ・マンガンガー
誰もが聞いたことがある



 ビゾウロとは、カブトムシやカナブンなどの甲虫を意味するポルトガル語である。大勢の敵に囲まれて、どうしても勝算がないと見るや、カブトムシに姿を変えて、空を飛んで逃げてしまうと信じられていたことから、このあだ名が付いたようだ。

 彼の出身地サント・アマロ(Santo Amaro)は、パウロ・バホキーニャ(Paulo Barroquinha)、ボカ・ジ・シリ(Boca de Siri)、ドージィ・オーメンス(Doze Homens)、ノカ・ジ・ジャコー(Noca de Jaco)、ペ・ジ・オンサ(Pe de Onca、カナーリオ・パルド(Canario Pardo)、シリ・ジ・マンギ(Siri de Mangue)、コブリーニャ・ヴェルジ(Cobrinha Verde)といった有名なカポエイリスタを生み出している。ブラジル音楽が好きな人ならカエターノ・ヴェローゾやマリア・ベターニャの出身地としても聞いたことがあるのではないだろうか。



Zum zum zum Besouro Manganga
Bateu na policia
De soldado a general
Zum zum zum Besouro Manganga
Quando entra numa roda
Nunca para de jogar
Zum zum zum Besouro Manganga
Bateu na policia
De soldado a general
Zum zum zum Besouro Manganga
Quando entra numa roda

Nunca para de jogar
Zum zum zum Besouro Manganga
Quem nao pode com a mandinga
Nao carrega patua
Zum zum zum Besouro Manganga
Quem nao pode com o Besouro
Nao assanha manganga

ズン、ズン、ズン ビゾウロ・マンガンガー
警察をぶっ飛ばす
兵隊から将軍まで
ズン、ズン、ズン ビゾウロ・マンガンガー
いったんホーダに入ったら
もう誰も彼を止められない

ズン、ズン、ズン ビゾウロ・マンガンガー
警察をぶっ飛ばす
兵隊から将軍まで
ズン、ズン、ズン ビゾウロ・マンガンガー
いったんホーダに入ったら
もう誰も彼を止められない

ズン、ズン、ズン ビゾウロ・マンガンガー
マンジンガがだめな奴は
パトゥアーを持ち歩かない
ズン、ズン、ズン ビゾウロ・マンガンガー
ビゾウロを相手にできないなら
マンガンガーを怒らせてはいけない



荒くれ者として名をはせていたビゾウロは、警察嫌いでも有名で、警察といさかいを起こしては、一度も負けたことがないという。カポエイラの技やナイフで敵をなぎ倒すたび、荒くれ者としての恐怖のイメージが不動のものになっていった。



Besouro Manganga
Era um homen de corpo fechado
Bala nao matava
Navalha nao lhe feria
Sentado ao pe da cruz
Quando a policia lhe seguia
Desapareceu enquanto o tenente dizia


ビゾウロ・マンガンガー

不死身の肉体を持った男だった
鉄砲の弾でも殺せなかった
カミソリでも傷つけることができなかった
教会の十字架のところに座っているところを
警官たちが後をつけてきた
ビゾウロは突然消えた。警官が叫んでいる

Cade o Besouro, cade o Besouro
Cade o Besouro
Chamado Cordao de Ouro
Cade o Besouro, cade o Besouro
Cade o Besouro
Chamado Cordao de Ouro

ビゾウロはどこだ、ビゾウロはどこへ行った
コルダゥン・ジ・オウロと呼ばれた
ビゾウロはどこだ
ビゾウロはどこだ、ビゾウロはどこへ行った
コルダゥン・ジ・オウロと呼ばれた
ビゾウロはどこだ

Besouro era um homem
Que admitia valentia
Nao aceitava covardia
Maldade nao admitia
Com a traicao
Quebrou-se a mandingaria
Mas a reza forte so Besouro sabia

ビゾウロは勇敢な男だった
蛮行を許さなかった
臆病なことも大嫌いだった
悪意のある行為は認めなかった
裏切りにあって
マンジンガが解かれてしまった
しかし彼だけが知っている祈りは無敵だった

Cade o Besouro, cade o Besouro
Cade o Besouro
Chamado Cordao de Ouro
Cade o Besouro, cade o Besouro
Cade o Besouro
Chamado Cordao de Ouro

ビゾウロはどこだ、ビゾウロはどこへ行った
コルダゥン・ジ・オウロと呼ばれた
ビゾウロはどこだ
ビゾウロはどこだ、ビゾウロはどこへ行った
コルダゥン・ジ・オウロと呼ばれた
ビゾウロはどこだ

Atras do Besouro
O tenente mandou cavalaria
No estado da Bahia e Besouro nao sabia
Ja de corpo aberto sem sua feiticaria
Cada golpe de Besouro
Era um homem que caia

ビゾウロの後に
巡査は騎兵隊を送ってきた
ビゾウロは気づいていなかった
すでにまじないの効力が切れていることに
それでもビゾウロの一撃ごとに
ひとり、またひとりと男が倒れていった




ビゾウロにまつわる話は、まるでおとぎ話のようだ。拳銃の弾をも通さぬ不死身の肉体を持っていたとか、マンジンガ(まじない、魔術)に精通し、自由に姿を消すことができたなど、常に超人的な能力が誇張されて語られてきた。それゆえ彼を空想上の人物ではないか、という意見も根強くあった。実際には、コブリーニャ・ヴェルジのメストリであり、ジョアン・ピケーノの父親のいとこであったとされ、実在したことは間違いなさそうだとは考えられていたが、少なくとも文献上は、それを示す証拠が何一つ確認されていなかったのだ。

 ところが20027月、ジョゼ・ジェラルド・ヴァスコンセロスは、サント・アマロ市立文書館における訴訟調書の調査からビゾウロが実際に存在したことを示す史料を掘り起こすことに成功した。彼が関わった殺人事件の資料が見つかったのだ。その中からはビゾウロの死亡証明書も発見され、かくして伝説のカポエイリスタは現実の存在となった。

 ヴァスコンセロスに先立つ199710月、アントニオ・リベラッキは、サント・アマロを訪れ、ビゾウロに関するフィールド調査を行っている。この時点では文献上の収穫はなかったものの、ビゾウロと同時代を生きた当時100歳前後のお年寄りたちに貴重なインタビュー取材を行うことができた。もう12年遅かったら、これまた歴史の闇に埋もれてしまう運命にあったさまざまなエピソードを記録することができたのだ。

 そういえば99年に私がサルヴァドールに滞在していたとき、あるメストリとの会話の中で、サント・アマロに今も生きているというビゾウロの親戚の話になったことがある。いずれも100歳を越える高齢者だが、連絡先などもすべて分かっているという。今思うとこのメストリもリベラッキの成果を聞かされていたのだろうと思う。私にとっても、それまで歌や本の中でしか知らなかった遠い昔の存在だっただけに、奴隷制やカポエイラが禁じられていた時代が突然身近に感じられて、とても興奮したことを覚えている。

 リベラッキが収集した証言の中でもっとも貴重なものは、ビゾウロの弟子であり、彼の仲間らとも身近に生活していたノカ・ジ・ジャコー(取材当時98歳)のものである。

 ジャコーによれば、ビゾウロは軍隊を出た後、船乗りとして運搬の仕事をしていたという。「デウス・ミ・ギイ(Deus Me Guie:神よお導きください)」と命名した愛船で、サルヴァドール、カショエイラ、マラゴジッペを行き来していた。

 ビゾウロは誰とでも騒動を起こしたわけではなかった。ケンカを売る相手は、決まって荒くれ者の「名声」をもっている人物だったという。そして警察の中にも、取締りの厳しさで知られる人物がいたらしい。そういう連中を叩き潰しては、自らの名声を確固たるものにしていったのだった。警察に立ち向かうビゾウロは、民衆にとってはある意味ヒーロー的な存在でもあったという。

 ジャコーは、当時のカポエイラについて、ときには仲間だけで集まってカポエイラを楽しむことがあったと言っている。そんなときは鶏をつぶして、ご馳走を作り、仲間の親睦を深めたという。

 デモンストレーションじゃよ。相手に当てるために技を出すのではなく、ふざけるためじゃな。ケンカではない。メストリは状況を管理する役割じゃった。バトゥキと同じじゃ。バトゥキはサンバが乱暴になったようなもので、パンデイロ、ギターあるいはカヴァキーニョに合わせて、あのステップを踏み、ハボ・ジ・アハイアを出すのじゃ。

 ビゾウロはまったく違うタイプのジョーゴをしておった。その後だいぶたってからじゃよ、アンゴラをしよう、他のなにをしようなどと言うようになったのは。わしらはどこでもジョーゴをしたものじゃ。呼ばれれば、出かけていった。そこにはビリンバウ、カヴァキーニョもしくはギターがあったのう。

当時のサント・アマロのカポエイラには、格闘技的な側面以外に、遊びの側面もあったことがうかがえる。楽器の種類も技のレパートリーも、現在よりもよほど多様性に富み、サンバやバトゥキともより近い関係にあったようだ。



 サント・アマロでなんらの文献も発見できなかったリベラッキは、発想を変えた。軍隊にも属し、その後は船でサント・アマロの外にも出ていたビゾウロであれば、市外にも何らかの記録が残っているのではないかと考えたのだ。さっそく彼はサルヴァドールへ行き、1910年から27年にかけての膨大な警察記録をあさり始めた。そしてついに彼はマヌエル・ヘンリケ・ペレイラ(ビゾウロの本名)に関する貴重は史料を探し当てたのだった。

 191898日、マヌエル・ヘンリケ・ペレイラ(23歳)は、警察官アルジェウ・クラウジオ・ジ・ソウザに対する傷害罪で、逮捕・起訴された。サン・カエターノ区の警察署にいたアルジェウは、窓のところで何かをうかがっているような不審な男がいるのに気づいた。5分ぐらい経った頃、男はアルジェウに声をかけ、押収された武器といっしょに壁に立てかけられていたビリンバウを返して欲しいと頼んだ。アルジェウが、上司の許可なく返すわけにはいかないと答えたところ、ビゾウロが掴みかかってきた。そこへ副所長のシモンエスともう一人の警官が戻ってきたので、ビゾウロはもう一度ビリンバウを返して欲しいと頼んだ。シモンエスが許可しないのを見ると、ビゾウロは大声で警官らに罵声を浴びせ始めた。それを見たシモンエスはビゾウロの逮捕を命じる。

 ビゾウロもじっとしていない。警官のシャツを掴んで引き寄せると、腰からサーベルを奪い取って応戦した。もとよりビゾウロも一人ではなかった。道には3人の兵士の仲間が待っていた。状況はビゾウロに有利になっていったが、集まってきた群集が警官のほうに加勢し、ビゾウロらに投石などを始めたため、彼らはいったんその場から逃げなければならなかった。

 驚くべきことに、ビゾウロの仲間の3人は第31歩兵隊の兵士だった。国を代表する軍隊が区レベルの警察に恥をかかされることなどあってはならぬと、兵舎に戻ったビゾウロらは30人の兵士を集め、曹長の指揮の下、警官を逮捕するべく再びサン・カエターノに向かったのである。

 騒動は、軍の司令官、警察署長らの耳にも入り、事態はより複雑になってゆく。しかし証人の多くが警察官と同じ証言をしたため、軍のほうが折れ、ビゾウロも軍から追われることになった。ともあれ1本のビリンバウからここまで騒ぎを大きくしてしまうビゾウロの大胆極まりない行動は、彼の伝説をより大きなものにしていくのだった。



 
発見されたビゾウロの死亡証明書は、その日付を192478日としている。原因は腹部に負った深い刺し傷で、サンタ・カーザ慈善病院で息を引き取った。生まれが1885年だったので、39歳だったことになる。証明書は、刺し傷を負うことになった原因についてまでは触れていないが、コブリーニャ・ヴェルジが語るビゾウロの最期は次のようなものだ。


Essa noite tive um sonho
Essa noite tive um sonho
Ai meu Deus, Besouro Manganga
Ele me falou “menino”
“Tu precisa se cuidar
Estao te jogando mandinga
Cuidado para nao pegar
Tinha um corpo fechado”
Ele me falou assim
“Contra faca e navalhada
Facao, foice e espadim
Mas la em Maracangalha
Tudo isso teve um fim”

Mataram Besouro em Maracangalha

Com faca de tucum mandinga falha
Mataram Besouro em Maracangalha
Em Maracangalha, em Maracangalha
Mataram Besouro em Maracangalha
Com faca de tucum mandinga falha
昨日の夜、夢を見た
昨日の夜、夢を見た

ビゾウロ・マンガンガー
彼は私に言った。「少年よ
気をつけるがいい。
あいつらはマンジンガを使ってくる
引っかからないように気をつけろ
俺は不死身の体を持っていた」
彼はこう続けた
「ナイフでもカミソリでも
刀や鎌が来たってなんともなかった
しかしマラカンガーリャの地で
すべては終わった


マラカンガーリャでビゾウロは殺された
トゥクンで刺されて、マンジンガが破られた
マラカンガーリャでビゾウロは殺された
トゥクンで刺されて、マンジンガが破られた
マラカンガーリャでビゾウロは殺された
トゥクンで刺されて、マンジンガが破られた



 さまざまな騒動を起こした後、ゼカという農園主の農場で牛飼いとして雇われることになった。ある日、ビゾウロは農園主の息子と口論になってしまう。ゼカは、マラカンガーリャに工場を持っており、そこにバウタザールという管理人を置いていた。彼はバウタザールにビゾウロの殺害を命じた手紙を書き、それをビゾウロ本人に届けさせた。手紙を読んだバウタザールは、ビゾウロに返事を明日まで待つように言った。翌日返事を受け取りに行ったビゾウロは40人の男に取り囲まれてしまう。拳銃の弾は一発も効かなかったが、だまし討ちにあい、チクン製のナイフで腹を刺されたという。チクン(ticum)は、トゥクン(tucum)としても知られる椰子の木の一種である。鉄のような強度を持つとされ、よくナイフなどに使われた。ファッカ・ジ・チクン(faca de ticum)と呼ばれるチクン製のナイフには、マンジンガを破る特別な力が備わっていると信じられていた。

 
コブリーニャ・ヴェルジの説では病院に運ばれたあとも、すぐには死なず、15日後に死に至ったと言っている。この点は、78日の午前1030分に病院に運び込まれ、同日午後7時に死亡したとする記録と食い違う。また証明書からは、刺し傷がチクンによるものかどうかも知ることはできない。


Quando morrer
Nao quero grito nem misterio

Quando morrer
Nao quero grito nem misterio
Quero um berimbau tocando
Na porta do cemiterio
Quero uma fita amarela
Gravada com o nome dela
E ainda depois de morto
Besouro Cordao de Ouro

Como e meu nome

E Besouro
Como e que eu chamo
E Besouro

俺が死ぬときは
泣き叫んだり、祈ったりしないで欲しい


ビリンバウの演奏があればいい
墓場の入り口のところで
そして黄色のテープが欲しい
彼女の名前が刻まれたテープ
そして死後までも
ビゾウロ・コルダゥン・ジ・オウロ

俺の名前は?
ビゾウロです
俺の名前は?
ビゾウロです




 いまなお多くの謎に満ちているビゾウロの生涯。かくしてビゾウロ・コルダゥン・ジ・オウロ、ビゾウロ・マンガンガーの名は歴史に刻まれ、カポエイラ史上最大の伝説となった。


(久保原信司)

TOP
目次へ戻る