■このコーナーの目的は、なによりもカポエイラの大先輩たちの意見に耳を傾けることにあります。メストリたちがそれぞれの経験から語る言葉は、グループやスタイルの違いを超えて、いったんは自分の中に取り込んでみる価値があるのではないでしょうか。

■とくにブラジルから遠くはなれてカポエイラに取組む私たちにとって、決定的に不足しているのがこういった古いメストリたちとのふれあいです。動きや音楽を真似ることは決して難しくありませんが、絵にも文字にも表せないあの雰囲気、独特のエネルギー
(AXÉをいかに感じられるかが、外国人である私たちには大きな課題だと思います。そのような理解が伴って初めて、動きや歌にも魂がこもりはじめるんですね。
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【メストリ名 ABC順 (敬称略)
Acordeon  AcordeonCamisa Roxa  Bamba  Cobra Mansa  Geni  Leopoldina  Lua Rasta  Moraes  Nenel





Mestre Geni(GINGA CAPOEIRA no.20)
P: メストリがカポエイラを始めたのは、いつごろ、どんなことがきっかけだったのですか?

G: 私はサルバドールの
Peninsula Itapagipanaに生まれた。この地域は、Mestre Zé Mario, Nô, Vermelho, Ezequielなど多くの有名なメストリを生み出してきた、カポエイラとはゆかりのある土地だ。
 私の近所に、
Mestre Israelが住んでいて、ちょうど私と同い年の5,6歳になる息子がいた。週末にはいつもホーダがあって、当時のそうそうたるメストリたち、Traíra, Canjiquinha, Moreno, Gato, Waldemarたちも顔を見せていた。あの時代は子供でカポエイラをしているようなのはいなかったので、私たち二人はいつも一緒にカポエイラでふざけていたものだ。カポエイラのジョーゴというよりは、アウーをしたり、床を転げまわっていたのだが。そうするうちにメストリが私たちが関心を持ていることに気づいて、日曜日のたびにホーダに連れて行くようになった。私のカポエイラとの出会いはこんな感じだったよ。

 うちの両親も最初は私がカポエイラをすることに抵抗があったようだが、誕生日にアゴゴをもらったんだ。それからというもの、そのアゴゴを弾くために毎回ホーダに通い続けた。ビリンバウを覚えたのはそのあと。

 そのころは50年代だったと思う。すでにメストリ・カンジキーニャ(
Mestre Canjiquinha)と出会っていて、彼の人となりやカポエイラ・アンゴラの中の業績にとても共感した。それで彼に本格的にカポエイラを習い始めて、彼が亡くなるまで一緒だった。もっともその後大学に入学し、そこでMestre Bimbaの弟子たちと知り合いになった。そのころはメストリ・ビンバ(Mestre Bimba)のところへも通い、ヘジオナウのフォルマード(formado)の資格も得た。

 カンジキーニャの影響もあって、路上のカポエイラ(
capoeira de rua)にも多くを学んだよ。あの当時だと、Diabo às Quedas, Pau de Rato, Mario Bom Cabrito, Di Mola, Indio, Gajeたちがいた。もう亡くなった仲間もいるけど、彼らこそ今日のバイーアのストリート・カポエイラを支えてきた連中だ。彼らとの付き合いが、今でも役立っている。こんなわけで私はアンゴラにもヘジオナウにもストリートのカポエイラにも一通り顔が利くんだ。

P: メストリがカポエイラをはじめたときは、カポエイラはどんな状況だったんですか?

G: まだまだ差別されていたね。私自身の経験からしても、学校に通っていた仲間はみんな中流階級で、柔道や空手を習っていた。カポエイラは、ならず者、黒人のもの、というイメージがあった。しかし私はそんな目でカポエイラを見たことはなかったし、実際にはカポエイラはいつの時代にもすべての階級の人に嗜まれてきたんだ。

 ただしその当時にも、ストリート・カポエイラと道場でするカポエイラを区別する認識はあった。その二つはそれぞれに対象とする階層に違いがあったのは確かだ。後者の代表はもちろんビンバで、彼は生徒を選んだし、特に大学の学生を受け入れた。しかしバイーアの人が知っているカポエイラは、やっぱり路上で見かけるタイプのものが主流だったし、そこではしばしば喧嘩などの騒ぎが起こったから、世間の見る目もよくなかったんだ。


P: メストリはカンジキーニャとアンゴラを始めたんですよね?

G: カンジキーニャは私にとって、カポエイラ・アンゴラに革命をもたらした人物だ。あまり知られていないが、ある時期コントラ・メストリ(師範代)としてメストリ・パスチーニャ(
Mestre Pastinha)の道場を任されていたこともある。

 またほかのどのグループも取り組んでいなかった時期にフォルクローレのショーを結成し、忘れかけられていたマクレレを見出したのも彼の功績だ。そのほかに数々の映画にも出演した。私も彼とともにブラジル中を旅行し、ほとんどの州に足跡を残した。そのうちいくつかの州では、まさにカポエイラが定着していく過程に立ち会ってきた。

 私の見解では、カポエイラ・アンゴラを「カポエイラの母」と呼ぶのはあまり適切ではない。はっきりしていることはカポエイラには父も母もなければ、伯父も甥もないということだ。しかしあえてこういう親族の名称でカポエイラの歴史を表現するとしても、「カポエイラの母」が意味するものは、カポエイラ・アンゴラという言葉には収まりきらないだろう。むしろストリート・カポエイラのほうがその地位にふさわしいと思う。そもそもカポエイラは、奴隷小屋で産まれおち、港にやってきて、路上に広がって行き、そのあとで道場に収まってアンゴラだのヘジオナウだのという名前を与えられているからだ。カンジキーニャにしてもカポエイラ・アンゴラの中でパスチーニャとはまた別の流れを汲んでいる。多くの人はアンゴラというと、低い体勢で相手と絡まりあうように動くスタイルを連想するだろうが、カンジキーニャをはじめほかの多くのメストリたちは、低くジョーゴもすれば高くもする、その中間の体勢もある、なぜならカポエイラはカポエイラであって、どんなふうにジョーゴをするかを決めるのはビリンバウなのだ。

 その意味でカンジキーニャから学んだものは計り知れない。彼は私たちがカポエイラについて研究することを促し、
RecôncavoSanto Amaro da Purificaçãoといった地域を何度もおとずれた。これらの地域はバイーアの中でも最もカポエイラの勢いがあった地域であり、今日でもより伝統的な形のカポエイラを見ることができる。周知のように、かのビゾウロ・マンガンガー(Besouro Mangangá)もこの土地の出身だ。私がカポエイラについて何かを知っているとすれば、それはカンジキーニャに負うところが大きい。彼はカポエイラにおける私の父のような存在だった。

P: 当時のストリート・カポエイラはどんな感じだっのですか?誰か注目されていたカポエイリスタはいますか?

G: バイーアのストリート・カポエイラは、相手を尊重し、また自分も尊重されるということを学ぶ場だった。あの時代のカポエイリスタは、自分たちがカポエイリスタだという認識をしっかり持っていたし、路上のホーダに入るときはそれなりの自信がなければ入らなかったものだ。しかもジョーゴをするときは独特の美意識があった。暗黙の敬意といってもいい。たとえば私が悪意を持って、相手を何とかやりこめてやろうとする。するとそれに気づいた周りのものたちは「誰もこのジョーゴを買うな。二人だけにやらしておけ」といい、当然そのジョーゴは激しいものになった。ただ今日と違うところは、決してお互い手を振り上げたりしなかったということだ。カポエイラは格闘であってもケンカではない。よくこの二つを混同する人がいるが、カポエイラはカポエイラのテクニックを放棄したとたんにそれはケンカになってしまう。カベッサーダをもらっても、ハステイラをもらっても、あくまでもそれはカポエイラのルールの中でのことであって、それを受け入れられない人は最初からホーダには入らなかったものだ。あるいは当たり障りのないきれいなジョーゴをすればよい。蛇を突っつけば咬まれるものだ。

 ストリートのカポエイラには決まった練習の体系などないが、他人のするのを見ながら、実際に参加しながら多くのものを学べる。まだカポエイラがよく見られていなかった時代からずっと続いてきているスタイルだけに、それは「抵抗のカポエイラ」ということもできるだろう。時には私たちがホーダをしていると、警察が来て全部終わらせてしまったものだ。そんなときは彼らが去るのを待ってまた始めるのだが、時には全員が逮捕されたこともあった。私たちが公共の安全を乱しているというのだ。こんな雰囲気の中で生き残ってきたストリートのカポエイラは、文字通り抵抗のシンボルなのだ。


P: メストリ・ビンバの道場に通っていたときのことを聞かせてください。

G: 1968年、まだ私はメストリという肩書きを持っていなかったが、ルーア・ハスタ(
Lua Rasta)といっしょにカンジキーニャの道場でカポエイラ・アンゴラを教え始めていた。確か70年代に入ったころだったと思うが、レスリングを通じてビンバの弟子と知り合いになった。あのころは、ビンバだけでなく、ほかのメストリもそうだったが、メストリは他の道場からの生徒を受け入れてはいなかった。したがってビンバと練習するためには、私はカポエイラの初心者の振りをするか、あるいはビンバの生徒の生徒でなければならなかった。そこでヘジオナウのレッスンをしていたターザンからセクエンシアやシントゥーラ・デスプレザーダを習った。結局彼のところには2ヶ月ほどいて、ある日ビンバに紹介してもらったんだ。それからフォルマード(卒業生)の資格をもらい、彼のショーにも出演した。カンジキーニャにマクレレやサンバ・ジ・ホーダを習っていたのですごく助かった。

 ビンバが教えていたカポエイラ・ヘジオナウは、当時としては唯一教え方の体系が確立されていたものだった。技の名前も決まっていたし、セクエンシアやシントゥーラ・デスプレザーダなどもあった。ほかのカポエイラが「見て覚えろ」式だったのに対し、ビンバのやり方は画期的だった。


P: スポーツとしてのカポエイラの「進化」というものを信じますか?

G: 信じるも何も、これは現実に起きていることだ。個人的には、適切な支えがないとカポエイラはその基礎となる何か重要なものを失ってしまうのではという危惧を持っている。だからといって現実から目をそむけてはならないと思う。

 カポエイラのいくつかの流れの中には、とりわけアンゴラ系のグループに多いのだが、カポエイラのスポーツ化に非常に強い抵抗を示すグループがある。 「カポエイラ・アンゴラは人生の哲学で、争いごとは一切ない」というような言い方をするが、私はそういう見方をしない。ホーダの中で二人がジョーゴをしているとき、お互いが相手を捕まえようとしているのであって、それはまぎれもなく対立だ。アンゴラにはジョーゴ・ジ・ジニェイロというすばらしい伝統があるではないか。それは相手との距離感覚、入るタイミングとかわすタイミングを養うにはもってこいのジョーゴだ。そしてこのゲームのルールもまさしく対立、競争であり、すなわちカポエイラは常に格闘(luta)なのだ。ただしこれは暴力とは違う。最近のカポエイラはどうも暴力的になってきているが、我々はカポエイラの伝統を見失ってはならない。


P: 最近のグループがヘジオナウの流れの上に新しいスタイルを作っていることについてはどう思いますか?

G: まずはっきりさせておくことは、これは決してヘジオナウではないということだ。どうも速いジョーゴがそのままヘジオナウだと誤解されているようだ。60年代にカポエイラがフォルクローレのショーに取り入れられたころ、そのままのジョーゴを見せただけでは観光客はすぐ飽きてしまった。そこでデモンストレーションとしてアクロバットが入ってきて、しだいにジョーゴの中に定着してしまう。私は
moderna(近代的な)とかcontemporanea(現代的な)と呼ばれるこのようなスタイルを支持する。カポエイラに限らずすべてのものは進化する。もしカポエイラがあの時点で止まっていたら、今日あるような地点には到達していなかっただろう。私の唯一の心配は、カポエイラとまったく関係のない技が導入され、カポエイラの基盤が失われないかということ。基盤の上に乗った進歩であれば、私は全面的に支持する。

P: 最近は若くしてメストリになるものがいて、批判も多い。年齢よりもカポエイラにおける経験年数のほうが重要だという意見もあるが、そのあたりメストリはどのように考えますか?

G: 私は進歩を支持するし、進歩の担い手は常に若者だと思う。私自身もカンジキーニャから26歳のときにメストリに認定されたが、それも小さいときからカポエイラを始めていたからである。どんな種目であれ、もし若者が勉強して実績を積んできたら、どうしてメストリになってはいけないというのか。ただ年齢がいっているだけで、実際カポエイラにおいて何の業績もない人よりよほどふさわしいことだと思う。私も何人か知っているが、若いとき少しカポエイラをしたことがあり、その後長い間休んでいて、最近カムバックしたとたんにメストリになる。みんなもちやほやし、頭を下げる。このような元カポエイリスタといったほうがいいような人よりは、若くして実績を積んでいる人物をメストリにしたほうがよほどよい。我々は古い偉大なメストリたちを敬うことも必要だが、同時に若い世代を認めることも大切なのだ。


P: カポエイリスタにメッセージをお願いします。

G: 頭をやわらかくして、目を開き、カポエイラがブラジルの芸術だということを理解してほしい。まだまだ研究もされなければならないし、乗り越えられるべき課題も山積している。私たちはホーダの中でカポエイリスタどうしいがみ合うのではなく、ホーダの外でカポエイラのために力をあわせて戦うべきだろう。


P: カポエイラの将来についてどのようにお考えですか。

G: カンジキーニャが私にいったことを繰り返しておきたい。「カポエイラには宗教も肌の色も国籍も関係ない。カポエイラは世界に羽ばたいていく」。これを彼はすでに50年代から60年代に予見していた。そして今そのとおりになってきている。今日カポエイラはブラジルの民間大使のようなものだ。それは世界中に愛好家が広がっているスポーツなのだ。


25 de abril de 2003
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Mestre Cobra Mansa (Cordão Branco no.2)

 メストリ・コブラ・マンサは、この27年間ブラジル、米国、欧州でカポエイラ・アンゴラの普及に活躍している。1982年にメストリ・モライスとともにGCAPを設立した。フォルクローレのショー・グループ「オバ・オバoba oba」では、パーカッショニスタと振り付け指導を担当、ストリートチルドレンを支援する「アシェ・プロジェクト(Projeto Axé)」ではカポエイラ・アンゴラとアクロバットの指導に当たった。この時期には米国やヨーロッパに赴き、カポエイラ・アンゴラの動きや音楽の講習会を行っている。

 1993年、アウサー・アウセット協会(Sociedade de Ausar Auset)の招きによりワシントンの学校で授業を受け持つことになり、60人の子供たち若者にカポエイラの指導をした。この時期にカポエイラ・アンゴラのCDをスミソニアン研究所のFOLKWAYSの協力で製作した。

 1996年、メストリ・ジュランジールMestre Juranjir、コントラ・メストリ・ヴァウミールContra-mestre ValmirとともにFICA(Fundação Internacional de Capoeira Angolaを設立し、本部をワシントンに置く。カポエイラ・アンゴラの普及を目的とした同団体は、カポエイラ・アンゴラを用いてさまざまな文化活動を行う非営利団体である。

 FICAのメンバーはワシントン市に約100人、米国、ヨーロッパ、ブラジルに11の支部を持ち、300人以上のメンバーを擁する。今日メストリ・コブラ・マンサは、ビリンバウのルーツやカポエイラの歴史について研究するかたわら、世界各国を周ってカポエイラ・アンゴラのすべての側面を継承していく重要性を説いている。

P: なぜカポエイラ・アンゴラなのですか?

C: なぜならカポエイラ・アンゴラが私の内面に響き、ホーダあるいは人生の中で進むべき道を教えてくれたからだ。


P: GCAPの時代について少し話してください。

C: GCAPはアンゴラの若い世代に多大な影響を及ぼしてきた。メストリ・モライスはリオでGCAPを創立し、まもなくサルバドールに戻り、とうじ衰退しかけていたアンゴラを再びよみがえらせようとした。ちょうどそのときに私もサルバドールに移ることを決意し、新しいスタートを切ることにした。


P: カポエイラ・アンゴラにはいろいろな秘密があるといわれます。27年間の実践の中でそれらのいくつもを発見してきたのだろうと思いますが、メストリはそれらの奥義を生徒たちに伝えるのですか?

C: メストリ・パスチーニャは、「メストリというものは、その秘密は自分の中に秘めておくが、自分の知識はすべて生徒に伝えるものだ」と言っていた。すべてのメストリは自分の持てる知識を弟子に伝えていくと思う。

P: メストリは最初からアンゴラだけに取組んできたのですか、それともカポエイラ・ヘジオナウを練習したこともあるのですか?

C: 私の最初の先生は、ジョジアス・ダ・シルヴァやメストリ・ハイムンドで、実際のところ彼らは自分たちのスタイルについて一度も語ったことがなかった。しかし今にして思えば、ヘジオナウの流れに近かったと思う。コルダゥンなどのシステムにしても。

P: カポエイラのために世界を旅行し始めたころ、外国の人々に何を一番伝えたかったのですか?

C: 私はメストリ・モライスと一緒に講習会をするために呼ばれた。私たちは最良のやり方でカポエイラ・アンゴラを紹介しようと考えていた。

P: ブラジルを出る何かきっかけがあったのですか?

C: すべては一連のプロセスの中でのこと。ワシントンで黒人の子供たちに授業をするために招聘されて、夜は大人にレッスンをしていた。そのうち少しずつ本格的になってきたということで、すべて自然に起こってきた。人生のホーダと同じだよ。

P: 米国でのカポエイラ・アンゴラはどうですか?

C: FICAはアンゴラのグループの中でも、近年最も注目されてきているグループのひとつだ。非常に多くの人々に受け入れられ、とても順調に行っている。我々の活動は、カポエイラ・アンゴラ、アフロ・ブラジル文化の理解に非常に貢献していると思う。メストリ・ジュランジールとコントラ・メストリ・ヴァウミールが常にサポートしてくれている。

P: 外国人のカポエイラ・アンゴラに対する反応はどうですか。派手なアクロバットもなければ、速い動きでもありませんが。

C: アンゴラには自然な美しさがあると思う。繊細な感覚の持ち主であればごく自然にそれに気づくだろう。アンゴラは感覚的な部分で人々を魅了していくカポエイラなんだ。だからアンゴレイロはスタイルを変えたりしない。一度アンゴレイロになれば常にアンゴレイロなんだ。外国人であるといっても、みんな人間なんだから、そのことに気づくことはできる。

P: すべての側面においてカポエイラ・アンゴラを継承していくことの意義とは何ですか?

C: すべての伝統は、その文化的、哲学的、社会政治的な規範の中で保全されていくべきで、カポエイラ・アンゴラの場合も例外ではない。アンゴラの保全は、アンゴレイロの将来にとって非常に重要なことだ。

P: アンゴラは、ひょっとするとブラジル国内よりも国外でのほうが成長しているのでしょうか?

C: そもそも成長とはなんだろうか。アンゴラはブラジルの内外で多くの練習者を獲得している。多くのメストリたちが国外に出て行くが、国内にも新しい世代が育ってきているし、彼らはアンゴラの中での自分たちの役割というものを非常によく理解している。アンゴレイロたちは国内外でアンゴラの普及に努めているし、それが現在の成長につながっている。

P: 今回の米国の戦争(9.11のテロ)は米国での活動に何か支障をきたしますか?

C: それはまったくない。唯一の問題は、ブラジルから仲間を呼ぶときにビザがおりにくくなっていることだ。

P: 戦争の話題が出たついでに、カポエイリスタたちに平和のメッセージをお願いします。

C: カポエイリスタというものはビリンバウの棒のようなもので、柔軟性の使い方を知らなければならない。それはホーダでも人生でも同じことだ。

27 de abril de 2003
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Mestre Nenel (Praticando Capoeira no.11)
 メストリ・ネネウ(Mestre Nenel: Manoel Nascimento Machado)は、兄弟や何人かのメストリたちの手助けを受けながら、父ビンバのヘジオナウをできる限り純粋な形で受け継いでいこうとしている。

P: カポエイラをはじめた経緯について聞かせてください。

N: 歩き出したころにはすでにカポエイラの道場に出入りしていた。1966年に正式に入門し、67年、6歳のときにフォルマード(修了生)になった。その後、ノルデスチ・ダ・アマラリーナで行われていたショーや、各地のデモンストレーションに参加し始めた。こんな頃から楽器を作ったり、家のことをしたりして、父を手伝っていたよ。

 73年にゴイアニアに引越しし、まもなく父は体調を崩して、私と兄が道場の運営をしなくてはならなくなった。結局翌74年2月5日に父が亡くなった。父は自分に万一のことがあったとき、私の義理の兄にわたしの面倒を見てくれるよう頼んでいた。私はその姉夫婦とブラジリアに住むことになり、そこで最初の道場を開いた。

 77年にサルバドールに戻ったときには、時々イベントやトーナメントに出場する程度だった。84年にやはり父の弟子だったメストリ・モイゼから、彼の道場でレッスンをしてくれないかという誘いがあり、そのときから本格的にカポエイラを再開した。86年に現在のグループの前身Associação de Capoeira filhos de Bimbaを設立し、のちに名前をFilhos de Bimba Escola de capoeiraと改名、今日ではメストリ・ビンバ財団とカポエレー・プロジェクトの代表を務めている。


P: 現在の状況についてもう少し話してください。

N: Filhos de Bimba Escola de capoeiraでは、父の業績をできる限り忠実な形で受け継ぎたいと考えている。外部に対しても講習会や歌のコンクール、楽器の作り方講座などを行いながら、父の哲学を広め、ヘジオナウについて誤った情報があれば正していくようにしている。

P: メストリ・ビンバが創始した当時のヘジオナウと現在のいわゆるヘジオナウを比較してみると、どんなことがいえますか。

N: ビンバのヘジオナウと現在のヘジオナウを比べるなんて、それは無理な相談だ。なぜならヘジオナウは父が作ったもの一つしかないんだから。

P: つまり最近多くのカポエイリスタたちが、自分たちで発明した要素をビンバのカポエイラに付け足していると思いますが、それについてはどうお考えですか?

N: 今までのところ「発明」なんて呼べるものは見たことがないね。

P: 他の格闘技のテクニックなどをカポエイラに取り入れることについてはどう思いますか?

N: もともとカポエイラは自由なものだし、あらゆる可能性を試すのも各人の勝手だ。ただし他のグループのホーダなどに行ったときには、それらの新しい要素をむやみに混同するのは避けるべきだ。ビンバの場合も、通常のコースに加えて特別講習があり、そこでは武器を用いた実践的な練習を行っていたが、それらをホーダで使うことはしなかった。

P: 「本物のカポエイラ・ヘジオナウ」を復活させるための特別な計画などはあるのですか?

N: 私はヘジオナウ以外にカポエイラを知らない。

P: あなた以外にヘジオナウの伝統継承に尽力している人はいますか?

N: まず私の兄弟たち、メストリ・ビンバ財団の実行委員会、それからいくつかのグループが本来のヘジオナウを受け継ぐために努力している。またメストリたちのなかにもヘジオナウについてより情報を得ようと私たちを訪ねてくる人がある。

P: あなたの考えとしては、ヘジオナウがその特徴を失っていった要因は何だと思いますか?

N: 組織と情報の欠如だろう。

P: たとえばどういう点が、ヘジオナウの特徴を損ねる(descaracterização)ということなんですか?

N: 上で挙げたごく一部のグループ、メストリ以外は残念ながらヘジオナウの特徴を受け継いではいない。

P: メストリ・ビンバは、果たしてこのようなヘジオナウの変容というものを見通していたのでしょうか?

N: いや、当時は完全に彼のコントロール下にあったので、そんなことは想像していなかっただろう。ただ時々口にしていたことは、やたらと「メストリ」が増えてきたということだった。

P: カポエイラの中のアクロバットについてはどのように考えますか?

N: ヘジオナウの中で私が知っているアクロバットというものは、あくまでもカポエイラ的な動きの中で、機敏さや器用さが合わさって発達してきた動きのことだ。そういうものである限りはすばらしいものだ。

P: 現在のカポエイラのタイプ、カポエイラ・コンテンポラニアについてはどう思いますか?

N: 自分の知らないスタイルについては口を出すつもりはない。基本的にはカポエイラのためになる変化であれば歓迎する。

P: ヴァリ・トゥードについてはどうですか?

N: 格闘家のなかにはカポエイラの知識を利用してリングに上がる者もいるが、ビンバはカポエイラはリング上でするためのものではないといっていた。

P: ビンバがあなたに残した最大の教訓はありますか?

N: 私を人間として成長させてくれたカポエイラだ。

P: あなたが偉大なビンバの息子だということで、人々の期待も大きいと思います。それについてはどう思いますか?

N: 特に気にはしていない。父の遺志を継ごうという私のやる気をかえって奮い立たせてくれる。父の死後ヘジオナウは衰退してきていると思うが、それを復活させるのが私の目的だ。

P: あなたの兄弟の中では誰がカポエイラを続けていますか?

N: サルバドールにDermeval(Formiga)とゴイアニアにLuís(Luiz Melodia)がいる。

 最後にひとこと明確にしておきたいことがある。長いあいだ混乱されてきたことだが、父が創立したCentro de Cultura Física Regional da BahiaAssociação de Capoeira Mestre Bimbaとは何の関係もない。父は40年代の初頭にかつてのラランジェイラ通り(現在Associação de Capoeira Mestre Bimbaがある所)に、自分の道場を移した。73年、ゴイアスに行く前にその場所の所有権を売りに出し、最終的にメストリ・ヴェルメーリョ27が買い取った。ただしあくまでも父の道場はゴイアスの地で継続しており、メストリ・ヴェルメーリョが買ったのは不動産であって道場そのものではない。つまりAssociação de Capoeira Mestre Bimbaは同じ場所に作られた別の道場であって、Mestre Bimbaという名称が含まれているのは、父に対する敬意として後につけられたものだ。

13 de maio de 2003
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Mestre Acordeon (Revista Capoeira no.7)

 メストリ・アコルデオン(Mestre Acordeon, Ubirajama Almeida)は、メストリ・ビンバの弟子で、70年代には数々のトーナメントで優勝を果たした。サンパウロのカポエイラを立ち上げた一人でもあり、68年アイルトン・オンサとともにK-poeiraを結成した。現在は米国に滞在し、Mestre Rãとともにバークレーでカポエイラを教えている。著書、CD多数。

P: アメリカ人にカポエイラを教えようという考えはどこから生まれたのですか?

A: 1970年、サンパウロからサルバドールに戻ったころ、当時スタンフォード大学に留学していた私の生徒セルジオ・アサニャッソからひっきりなしに手紙が届き始めた。彼はぜひカポエイラを米国で広めようと強く私を説得した。そこでコルポ・サント(Corpo Santo)というショーグループを結成し、米国のある大企業のスポンサーを得ることができた。実際に渡米したのは78年、テキサスでショーをするためだった。結局2年たって仲間はブラジルに帰ったが、私は残ったんだ。

P: 長年ブラジルの外でカポエイラを教えてきて、カポエイラを見る目は変わりましたか?

A: 私の本の導入にも書いたことだが、私がパスチーニャに「カポエイラとは何ですか」と聞くと、「カポエイラは人生だ(a capoeira é tudo que a boca come)」と答えた。同じ質問に対しビンバは「カポエイラは悪意だ(a capoeira é maldade)」と答えた。思うに、この二つの答えはお互いに意味を補い合うものであり、当時のブラジルの黒人を取り巻く厳しい社会状況の中から生まれた、つの異なる立場を反映している。

 パスチーニャにとってカポエイラは、人生が与えてくれるすべてのものだった。つつましい生活や失明、老いなど彼に降りかかった困難な状況を含めて、いいことも悪いことも、すべては神聖なプレゼントであり罰だった。これに対してビンバにとっては、人生に潜む危険や不正を見抜く手段であり、それらに対抗して生き抜くための戦略を提供してくれるのがカポエイラだった。

 幸運にもこれまで知り合うことのできた偉大なメストリたちの教えや、今日までの40年に及ぶカポエイラ人生を振り返ってみると、すでにカポエイラは私の生き方そのものになってしまったように感じる。そこには無限の可能性が広がっている。カポエイラは、隣人や私自身に対して寛容になることを教えてくれたし、自分の強さと同時に弱さを受け入れることも学んだ。ちょうど毎日食べるパンのように、私が矛盾に満ちた社会を生きていくために必要な、肉体的・精神的なエネルギーの源泉になっている。

P: 外国人の生徒にとって、カポエイラはどんな意味を持つのでしょうか?

A: 私の生徒たちにとってカポエイラは、複合的な芸術であり、肉体的な挑戦、哲学的な謎だ。それは彼らにとって、社会的にも文化的にも自分たちのものとはまったく違った歴史的文脈から出てきた魅力的なアートだ。しかしながらほんとうにカポエイラを愛する者に対しては、人種・国籍・性別・年齢・経済的地位などに関係なく、各人のさまざまな目的に応えてくれるのがカポエイラなのだ。


P: ブラジル人とアメリカ人のあいだでは何か決定的な違いを感じますか?

A: 技術的な面ではほとんど違いはない。練習者の数が増えるにしたがって、外国人のレベルは飛躍的に向上している。ただ文化的な違いのために外国人が苦労する面も確かにある。

P: さきほどビンバとパスチーニャの話が出ましたが、メストリの考えではヘジオナウとアンゴラは互いに共存していけるとお思いですか?

A: その質問に答えるのは、私にとって二つの点でやっかいだ。まずひとつは「ヘジオナウ」「アンゴラ」という言葉の定義の問題であり、もうひとつは通常あまり問題にされないが二つのスタイルの誤った区別の仕方だ。

 文献や口頭の伝承によればカポエイラの歴史は少なくとも200年以上にはなる。それが1920年代、さまざまなスタイル、さまざまなメストリの中から「ヘジオナウ」としてビンバが登場した。彼は「アカデミア(道場)」をつくり、教育者として多くのバイーアの若者に影響を及ぼした。アフリカ起源のその他の大衆文化と同様、カポエイラを価値ある芸術として社会に認知させることに果たしたビンバの役割は決定的に重要だ。

私にとってヘジオナウとはビンバのカポエイラだけであり、せいぜいその近親で真のヘジオナウを受け継ごうと努めているごく一部の者たちのカポエイラだけだ。それ以外のすべてのスタイルのカポエイラは単に「カポエイラ」と名付けられるべきであり、もしこだわるのなら「カポエイラ・アンゴラ」と呼んでもいいだろう。

P: ではヘジオナウを定義づけるのはどういった特徴なのですか?それらはより伝統的なカポエイラ・アンゴラに由来するものではないのでしょうか?

A: まず明確にしておきたいのは「伝統」という概念は、より多い・少ない、より良い・悪いというものさしでは測れないということだ。そもそもカポエイラは、ダイナミックな芸術であり、時代とともに様々に形態を変えながら、その都度新たな「伝統」を創り出してきたのだ。そうでなければ今日まで生き残ってこられなかったに違いない。

 ビンバのカポエイラは彼の性格や特徴を直接的に反映していた。当時としては画期的な練習方法を採用し、なにより彼自身がカリスマ的な存在だった。ビンバがビリンバウを弾き、歌いだすと、その場は独特な雰囲気に包まれた。サン・ベント・グランジ(São Bento Grande)はより格闘技的に、バンゲラ(Banguela)は床の動きが中心、イウナ(Iúna)は修了生だけに許されたエレガントで高度なジョーゴだった。これらすべてがヘジオナウを特徴付ける要素だし、さらにいうなら1本のビリンバウ、2枚のパンデイロ以外のものを使った段階で、もはやビンバのヘジオナウではないのだ。

 ところでこのようなビンバのカポエイラも、そもそもその前のカポエイラ、「アンゴラ」と呼ばれるカポエイラに由来するとするなら、「アンゴラ」のもつ多様性、包容力を理解できるだろう。アンゴラは決して統一された形態ではなく、むしろパスチーニャが言うように「口が食べられるすべてのもの」なのだ。私の時代でも、ヘジオナウ以外のカポエイラは、半ズボンやその時々の服でジョーゴをしたし、靴は履いていたときも履いていないときもあった。楽器にしてもビリンバウが1本しかないときもあれば、パンデイロだけのときもある、カスタネットが使われたこともある。激しいホーダになるか、より儀礼的なものになるか、すべてはその場の状況や、メンバーの顔ぶれ、ホーダの責任者の意向しだいだった。そしてビンバこそ、こうしたごった煮の鍋の中からいくつかの要素を取り除き、またいくつかの要素を統一して、教育的価値を高めながらカポエイラの練習過程というものを堅実なものにした。

P: しかしカポエイラ・アンゴラでは常に靴を履いてジョーゴをし、伝統にしたがっていたのではないのですか?

A: なんの伝統?おそらく君が想定しているアンゴラというのは、私がカポエイラ・アンゴラ・コンテンポラニアと呼んでいるスタイルのことだろう。一般にそのグループの系統は、靴を履くことを義務付け、黒いズボンと黄色いシャツをユニフォームとして採用している。動きやしぐさの特徴も非常に明確な共通性を持っていて、「伝統」の大切さ、とりわけアフリカ性を強調する。率直に言って私も、この系列団体の動きの美しさが好きだし、カポエイラを芸術として重んじる姿勢、音楽や儀礼を大切にする考え方にはおおむね賛成である。

 ただこのタイプのカポエイラは非常に最近作られたものだし、ある意味で北米のもっとも急進的な黒人グループを思い起こさせるものだ。彼らの学問的に練り上げられた論法、社会問題に対する正しすぎるほどの発言、反面とても現代的、ヨーロッパ的なトレーニング方法の採用。こうした戦略は、カポエイラのようなアフリカに根を持つ自然発生的な芸術には似つかわしくないと思う。

P: それではメストリは、このタイプのカポエイラ・アンゴラに反対なのですか?

A: とんでもない。ヘジオナウの現代版としてカポエイラ・ヘジオナウ・コンテンポラニアに反対でないのと同じ意味で、アンゴラ・コンテンポラニアにも反対ではない。むしろこうしたカポエイラの持つ多様性にこそ、強さと美しさがあると思う。どの特定のスタイルもカポエイラを代表することはできないし、いかなるメストリといえどもカポエイラの主人であるように考えられるべきではない。カポエイラは、様々な解釈、その違いも含めた私たち全体から構成されるものなんだ。

P: メストリのカポエイラ観は独特だと思いますが、どうしてそのような結論に至ったのですか?

A: 米国でカポエイラを教え始めたとき、カポエイラとは何かを説明するのに非常に苦労した。だからこそその歴史や現状についてずいぶん勉強した。何年か前になるが、ウィスコンシン・マジソン大学の客員教授に任命された。この大学にはブラジルの近代、植民地時代に関する膨大な資料がある。そのときの奨学金でアフロ・ブラジル文化について文献を読みあさり、講演や討論をした。

 私の生徒たちには様々な考え方に触れて欲しいと思っている。特に私とはまったく異なる意見を知ることで、自らの判断をより慎重に下すようになるだろうし、他人の意見の信憑性を判断できるようになるはずだ。そういうプロセスを通じて、カポエイラの歴史や発達についての自分の立場を固めていくだろう。


P: 外国で教えられているカポエイラについてはどうお考えですか?

A: 外国のカポエイラは、ブラジル国内の様々な傾向がそのまま反映されている。だからこそ幅広い意味でブラジルが見本をしめすことが大切だ。カポエイラは非常に多様な側面を持つ芸術だ。その解釈は、特定の個人、団体、系列によって断定されるべきものではない。

P: どういうことですか?

A: カポエイラは大きな力を持った大衆の文化表現だ。さまざまに異なる関心を持った人たちの要望に応えることができる。だからこそそういう多面性をどれか一つに狭めてしまうのは馬鹿げたことだ。たとえば「カポエイラはブラジル人だけのもの」「黒人にしか理解できない」「エリートだけのもの」「自分のやり方に従わないものは受け入れない」「愛と平和のために取組む人たちだけのもの」、こういった主張はすべて差別的になるし、カポエイラの可能性を大きく損なわせることになるだろう。

P: 最後に読者にメッセージをお願いします。

A: 歴史的に見てもカポエイラが今日ほど恵まれた状況にあったことはない。さまざまな人々に恩恵をもたらし、多くの人に職業さえもたらしている。若い人は情熱と忍耐を持って練習と研究を続けていって欲しい。そして思いやりと寛容をもって進んでいこう。異なる意見を持ち、異なるスタイルに取組むすべての人がカポエイラの中で誇りを持って表現できる状況、自らもジョーゴし、相手にもジョーゴさせてあげる状況を作っていこう。
Muito Axé para todos !

20 de maio de 2003
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Mestre Moraes (Praticando Capoeira no.5)
 パスチーニャの弟子ジョアン・グランジを師匠に持つメストリ・モライス(Mestre MoraesPedro Moraes Trindadeは、カポエイラ・アンゴラのサラブレッドだ。8歳でカポエイラをはじめ、今日ではカポエイラ・アンゴラを代表するメストリの一人となった。

P: いつごろ、どういうきっかけでカポエイラをはじめたのですか?

M: 8歳のときメストリ・パスチーニャの道場でカポエイラ・アンゴラを始めた。道場の中での直接の先生はジョアン・グランジだった。

P: 当時のカポエイラはどんな状況だったのですか? 

M: あのころは今みたいにカポエイラが話題になることさえ少なかった。それは当時のカポエイリスタたちの情報不足やグループの組織力不足のためだ。大衆層が教育を受けること自体が難しかったから、彼らが文化を発信することはとても困難だった。

 ほとんどのカポエイリスタはストリートのホーダでカポエイラをしていた。ストリートのホーダこそ生きた学校であり、カポエイリスタとして必要なことはすべてそこで学んだ。ジョアン・グランジが言うように、ポジティブになりネガティウになるということを学んだのもホーダの中だ。


P: メストリ・ジョアン・グランジはパスチーニャの道場の先生だったのですか?道場の仕組みはどうなっていたんですか?それはサルバドールの中でどんな重要性を持っていたのですか?

M: ジョアン・グランジだけがパスチーニャの教官だったのではなく、ジョアン・ピケーノもそうだったし、彼は今日までパスチーニャの重要な後継者だ。
 パスチーニャの道場はアフリカ的な伝統に従っていたというか、いわゆる「アカデミア」というような形態が整ってはいなかった。それは決してまとまりや規則がなかったということではなく、合理主義ではない生活体験の形だった。
 生徒たちはコントラ・メストリの監督の下で練習していた。ホーダは日曜日の午後か、平日でも観光客が始まったときにはホーダが始まった。

 パスチーニャのアカデミアは、カポエイラ・アンゴラの伝統を継承する人材を育成したという意味で、きわめて重要な役割を果たした。


P: カポエイラ・アンゴラにはパスチーニャと同時代、あるいは彼以前にも偉大なメストリたちがいたと思いますが、どうして彼が特に注目されたのですか?

M: 先ほどいったように当時のカポエイリスタたちはなかなか教育を受ける機会に恵まれなかった。だからカポエイラ・アンゴラのことを言葉にして語ることが難しかった。その点パスチーニャは、非凡な資質を持っていた。

 彼の哲学は、今日でもカポエイラ・アンゴラの進むべき道を示している。つまり多くのアンゴレイロがカポエイラの主観性に対する説明を求めるとき、パスチーニャ以外に参照できる見本がないのだ。

P: GCAPは新世代のメストリたちを輩出しましたが、それを立ち上げたときの背景はどのようなものだったのですか?

M: GCAPが生まれたときは、ヘジオナウに比べてアンゴラはとても衰退していた。ヘジオナウは科学的に練り上げられた言説で上流階級に受け入れられ、アンゴラやアンゴラのメストリたちは「博物館の遺物」として紹介されるような状況だった。

 リオ・デ・ジャネイロに12年間滞在した後、1982年にサルバドールに戻り、リオで創設したGCAPの活動を続けようと決意した。すなわちパスチーニャの遺志であるカポエイラ・アンゴラの継承と普及の活動だ。しかしこのような仕事は古いメストリたちの導きなしに私だけで行うことはできない。私は彼らにアンゴラを復活させることへの参加を呼びかけた。結果は今日見られるとおりだ。

 新しいメストリたちが出てくるのはカポエイラ・アンゴラの存続から言って当然の結果だ。しかし残念なことに一部のカポエイリスタの中には、カポエイラ・アンゴラのメストリになるということについて誤った理解をしている人もいて、メストリの増殖を招いている。アンゴラとヘジオナウの両方教えることはより多才なことだと考えるばかげた発想は論外だ。

P: 先回行われたGCAPの講習会では黒人俳優のマリオ・グスマゥンを顕彰しましたが、このようなイベントはどういう意味で重要なんですか?

M: GCAPとしては単にカポエイラの技術的な部分だけを教えることに関心はない。われわれの目的はもっと多岐にわたる。そのひとつにブラジル黒人の中の英雄的人物を紹介していくということがある。このような問題に関心のある多くのネグロにとって、マリオ・グスマゥンは英雄であり、ブラジル社会に忘れられている「ズンビ」の一人だ。

P: 多くの人はカポエイラをスポーツだと考えています。あなたはカポエイラ・アンゴラをどのように考えていますか?

M: メストリ・パスチーニャはカポエイラを「人生(a capoeira é tudo que a boca come)」と定義したことがある。カポエイラをスポーツに限定することは、その実践の中の肉体と精神のフュージョンを否定することになる。私のカポエイラ・アンゴラに対する見方はholistica、つまりそれはひとつの宇宙のようなものだ。成長する複雑さを構成する目的のもとさまざまな部分が集まっている。それは未完成の芸術だ。

P: カポエイラはストリート・チルドレンや愛情に飢えた子供たちをどのように助けることができますか?

M: カポエイラに子供たちを救うことを期待する前に、文化や伝統の伝承というものは子供や若者たちにそれを伝承することによって実現されるものだということに気づかなければならない。彼らに自分たちが生きる社会の文化的価値を知ってもらい、結果として自尊心の形成につながる。カポエイラの動きの遊戯性や音楽性を通じて、メストリたちはわれわれの権利や義務について説明し、路上の子供たちを社会に再統合させることも可能だろう。しかしカポエイラをスポーツ、格闘技に限定して用いるなら、逆の結果を招くこともありうる。

P: カポエイラ・アンゴラでは儀礼やジョーゴの精神的側面など伝統の継承に重きを置きます。それらは世紀の変わり目にあって近代化、国際化にどのように対抗していくのでしょうか?

M: カポエイラ・アンゴラはブラジルについて以来、あらゆる社会的な変化を潜り抜けて生き残ってきた。この芸術は変幻自在なんだ。国際化というのは実のところ植民地化の新しい形態に過ぎない。ブラジルにおけるアフリカ的伝統は今日まで抵抗を続けている。精神性とのつながりこそが、あらゆる社会的変化の中でカポエイラが生き残ってきたカギだ。

P: カポエイラはアフリカの祖先性(acncestralidade)から離れてきたと思いますか?

M: カポエイラはアフリカの祖先性の代表格の一つだ。カポエイラをする人の中にはこのことをまったく気にせずにしている人がいるが、結局彼ら自身がそのつけを払っている。

P: ジョアン・グランジがニューヨークへ行ってしまったことについてどうお考えですか?向こうでは大学から名誉博士号ももらい、その存在価値が評価されています。

M: 生ける伝説的人物がブラジルから流出して、海外でその価値が認められるということは、我々ブラジル人にとって悲しいことだ。このようなブラジルの現状は自国の文化やアフリカの祖先性に対する冒涜だ。もしジョアン・グランジがあのままバイーアに留まっていたら、同時代の多くのメストリたち、ボボー(Bobo)、ヴァウデマール(Waldemar)、パウロ・ドス・アンジョス(Paulo dos Anjos)、エゼキエウ(Ezequiel)やカンジキーニャ(Canjiquinha)らのように死んでいっただろう。

P: 今日カポエイラ界では多くのメストリが誕生していて、その多くが若い人です。カポエイラのメストリとはどういう存在なのでしょうか?

M: メストリになるということがどういうことか、今のカポエイラ界では大きな誤解がある。もし東洋的な文化に目を向けるなら、師範(メストリ)と呼ばれる人はタタミの上でもはや肉体的な実力を証明する必要のない人たちのことだ。彼はその芸術の精神性に精通していて、格闘の実力だけでなく、人生経験や知性で弟子たちの尊敬を集める。

 ところがカポエイラの中ではお金で称号を買ったり、自分で勝手にメストリを名乗ったりし、カポエイラに対する主観的要素を気にも留めない。主観性(subjetividade)こそが適切な言葉を使わせ、本物のメストリを特徴付けるということを忘れてしまっている。

P: 2000年に50歳を迎えるカポエイラ・アンゴラのメストリとして現在の心境は?

M: 幸運なことに私には肉体的活動、精神的活動と年齢を結び付けて考えるだけの理性がまだ備わってないように感じるよ。出生証明を取るたびに何かの間違いではないかと疑ってしまう。私はまだ24歳で今年25歳を迎えるような気分だ。バオバブの木は老いてなお威厳を保ち続ける。

6 de junho de 2003
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Mestre Bamba
 カポエィラ・ヘジョナル・ジャパオの招聘で来日していたメストリ・バンバ(Mestre Bamba)を、2000年5月27日(土)、新宿のレストランでインタビューしました。あまりにマニアックなものは割愛し、ここでは一般のカポエイリスタに役立ちそうな部分を選んでまとめてみました。ですから質問の順序などに特別な脈絡はありません。
 またインタビュー後におじゃましたレッスンのなかでメストリが説明した内容、移動の途中に話した内容などもダイジェストしてあります。


P: メストリ・ヴェルメーリョ・ヴィンチ・セッチ(Mestre Vermelho 27、メストリ・バンバの師匠)の「27」は、どこから来たんですか?

MB:当時アンゴラにもヴェルメーリョというあだ名のカポエイリスタがいたので、それと区別するために27という数字をつけた。メストリはルーレットの賭け事が好きで、なぜかは分からないが「27」という数が幸運をもたらすと信じて、いつもこの数字に賭けていた。だから自分のあだ名にもこの数字をつけたんだろう。


P: ビンバはどうしてヘジオナウの楽器からアタバキを取り除いたんですか?

MB:ビンバはビリンバウをカポエイラの中心的な楽器として強調したかった。カンドンブレでアタバキがになうような役割を、カポエイラでビリンバウに持たせたかった。ビンバにとってアタバキは、カポエイラの民族舞踊的な要素の象徴だった。


P: ヘジオナウには東洋の格闘技の影響もあるんですか?

MB:ある。バイーアでは松涛館空手のカリベ一家が有名だが、ビンバもいくつかの技を教えてもらっていたようだ。ただしビンバが手で攻撃をするのは基本的に異種格闘技戦のような場合で、カポエイラの中ではほとんど使わなかった。よほど相手がキタナイ技を使ったりすれば別だが。


P: ビンバのバチザードでは、腰ひもではなくネッカチーフとメダルでしたね。

MB:そうだ。メダルを胸につけるのはフェスタなどの特別の日で、普段は首にネッカチーフを巻いていた。その後、ビンバの弟子のカルロス・セナが、幅広の紐(fita)を腰に巻くスタイルを考案した。


P: ビリンバウのトーキでbanguelaがありますが、ABADÁなどではbenguelaといっています。どちらが正しいんですか?

MB:ビンバのレコードの表紙にはbanguelaとあるし、我々はそれを用いている。他のグループの解釈についてはコメントできない。


P: banguelaの特徴についてはいかがですか?

MB:サン・ベント・グランジよりも床の動きが多くゆっくり目。ビンバも、このトーキによってアンゴラ的な要素(malícia)を継承することを明らかに意識していたに違いない。


P: その他のトーキの特徴についても、それぞれのメストリがばらばらなことを言いますが・・・。

MB:これも誤解が多いが、ヘジオナウでジョーゴのために弾かれたものはサン・ベント・グランジ、バンゲーラとイウナの3つのみ。その他はジョーゴを伴わない節のみ。またビンバはビリンバウのみを特別に教えたりすることもなかったという。だからヘジオナウの全てのトーキを弾ける生徒はめずらしかった。


P: ヘジオナウではホーダのどの部分からでも、ジョーゴを買っていいんですか?

MB:昔はどの部分から割って入ってもよかった。ビリンバウの足下から入るのが定着したのは、スポーツとして定着してきてから。アンゴラの場合はいつもビリンバウの足下からだった。


P: ヘジオナウのユニフォームは?

MB:メストリ・パスチーニャがイピランガ(サッカーチームの名前)のファンだったので黄色と黒のユニフォームを採用したように、ビンバもガリーシアを応援していたので白と青を採用した。白地のシャツに、青いロゴがついているのはそのため。


P: ヘジオナウでホーダに入るタイミングは?

MB:基本的にはコヒードが始まった時点。ただしクアドラの後のカント・ジ・エントラーダは、いつも「エ、エー、ヴァーモス・インボーラ、カマラー」で結ばれ、次にコヒードに移る。


P: ヘジオナウの最盛期はいつごろだったんですか?

MB:40年代だ。ビンバの道場があったジェズース広場にはバイーア連邦大学の医学部があったが、当時、医学部生は二つの卒業証書が必要だといわれたものだ。ひとつは大学のそれで、もう一つはカポエイラ・ヘジオナウのものだということ。それくらい中産階級の若者の間で流行だった。


P: 背景にはやはりビンバの名声があったんですか?

MB:異種格闘技戦で連戦連勝だったビンバは、ある意味でヒーロー的な存在だったのは確か。それにもまして彼が当初からカポエイラを一つの職業として確立しようと考えていたことが重要だ。労働手帳や学生証のないものは生徒として受け入れなかったし、ならず者と一線を画した。このことが若者たちの親をも安心させる材料になった。


P: しかしそんなヘジオナウも衰退してくるんですね。

MB:どんな都市でもそうだが、はじめは都心ほど活気があったものが、しだいに金持ちたちが郊外に移り始める。すると中心に残るのは貧乏人、犯罪者、売春婦たち・・・。ビンバの学校もどんどん治安が悪化する中心部に取り残された。これがあらためてヘジオナウのイメージダウンになっていった。


P: ビンバは結局、異郷の地ゴイアイスでひっそりと亡くなりますが、そうなる前に弟子たちは何らかの手助けができなかったんでしょうか?

MB:当時の生徒たちはケンカに強くなりたいとか、それぞれの目的を持ってカポエイラに入門してきたが、師匠の生活やカポエイラを取り巻く環境そのものを案じるほど、深く傾倒している者はいなかった。みんな自分の生活のことが再優先で、仕事を求めて他の州に移った者も多い。 メストリが困っているか、道場の生徒数が安定しているかということにまで気を配っていなかった。


P: ビンバをバイーアから連れ出したメストリ・オズワルドは、その他の弟子たちにしばしば悪者扱いされますが・・・。

MB:まったく反対だ。オズワルドは少なくともビンバを飢え死にさせないように、絶妙のタイミングでビンバをゴイアイスに呼び寄せた。そのとき空港まで車で送っていったのがメストリ・ヴェルメーリョ27だった。当時バイーアで何もしないでメストリをゴイアイスに追いやっておきながら、その死後になってオズワルドを責めるのはおかしい。


(注)このインタビューではメストリの答えをそのまま載せてあります。もちろん同じ質問を他のメストリにすれば、また別の答えが返ってくることもあるでしょうし、私のこれまでの調査などと食い違う個所もありますが、そこはあえて分析などを加えていません(インタビュアー;Liberdade(久保原)
6 de junho de 2003
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Mestre Leopoldina (Universo Capoeira no.5)

P: いつごろカポエイラをはじめたのですか?

L: 20歳のときからだよ

P: メストリは誰だったのですか?

L: いい意味でわしにはメストリはいなかった。というよりも友人がカポエイラやその知識をいろいろ教えてくれた。彼の名前はキンジーニョ(Quinzinho)といって、ミナス・ジェライス州出身の男だったが、じきに死んでしまった。彼の死後1年たった頃、アルトゥール・エミージオ(Artur Emidio)に出会った。彼とは6年ほど練習して、そのときにカポエイラのテクニック、技の名前などを覚えた。わしが今日知っていることは、アルトゥールに負うところが大きいよ。

 彼はわしにカポエイラを広めるよう命じた。あの頃はリオ・デ・ジャネイロでカポエイラなんてほとんど知られてなかったよ。60年から64年にかけて私はカポエイラを無料で教えていた。

P: メストリはいつもグルーポ・センザーラのイベントに参加されますが、センザーラとはどういう関係なのですか?

L: グルーポ・センザーラは何かにつけて私を助けてくれた。彼らとは強い結びつきがあるんだよ。1974年にサンパウロで連盟が作られたとき、私には声がかからなかった。当時私はサンパウロ州のグアルーリョス市でカポエイラを教えていたのに、バチザードのときも私のアカデミアに行ってはいけないという暗黙の通達があったようだ。

 私がもっとも有名でエレガントだったので、嫉妬心から私を疎んじたのに違いない。もし私がサンパウロに本格的にアカデミアを作ったら、彼らには大きな脅威だと映ったのだろう。だから私をのけ者にしたのだ。結局バチザードでは、アウミール・ダス・アレイアスが一人で18人の生徒を洗礼しなければならなかった。

 しばらくして生徒が40人くらいになった頃、2回目のバチザードをする必要があった。たまたまリオに戻ったとき、センザーラのアカデミアに立ち寄ったところ、ハファエルがいて、どうしてリオから消えたのかと聞いてきた。私がサンパウロでの状況を話すと、自分たちが私の生徒たちを洗礼してやると言う。さらに彼は私が彼らにとっていかに大切かということを言った。ペイシーニョやイタマールもその場にいた。以来、グルーポ・センザーラとは非常に親しくなり、彼らのおかげでヨーロッパに行くこともできた。

P: あなたの人生の中でカポエイラはどのような意味を持っていますか?

L: わしは最初に最下層のカポエイラを覚えた。教えてくれたのは犯罪者のような連中で、いざこざの中に自分を見失っていたときもある。アルトゥール・エミジオと知り合って、カポエイラの別の側面、社会的ないい側面に気づかされたよ。どちらかを選ばなくてはと思い、社会性のほうを選んだんだ。

P: カポエイラというと何を感じますか?

L: まず言葉にはできないね。あまりにも強烈なのもだから説明もできないよ。家族であり、健康でもあり、喜びや友情でもある。カポエイラを初めて49年になるが、いちども相手にポンタ・ペー(ponta pe)をしたこともなければ、もちろんもらったこともない。いつも友達を増やすように心がけている。カポエイラは常にそれに役立つし、事実今日新しい友人が増えてだろう、君だよ。

P: メストリは世界中を周っていますが、外国のカポエイラについてどう思われますか?

L: すばらしいね。カポエイラはどの国でも受け入れられている。むしろブラジルのカポエイラで残念なのは、サンパウロのある人が、私の作った曲を何の承諾もなしに自分のCDに録音したことだ。すでに訴訟の手続きに入っているがの。

16 de junho de 2003
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Mestre Lua Rasta (Capoeira no.2)

P: メストリはどちらの出身ですか?

L: バイーア州のサルバドール市だ。偉大なサルバドール!


P: カポエイラとの出会いについて教えてください。

L: 私が生まれた1950年ごろはバイーアでもカポエイラについてあまり語られていなかった。今から考えるとカポエイラに対する偏見があったからかもしれない。私の家族は沖仲仕で、当時港でカポエイラの状況を見ていたのだろう。私は母と祖母に育てられたが、おそらく私にはカポエイラのことなど考えず、勉強をして欲しかったのだろう。もし家に余裕があれば社会的にも認められている空手や柔道を習わせたかったと思う。

 私もカンドンブレのテレイロには行ったりしていたが、カポエイラについては何も知らなかった。ある日曜日、家中のものが集まって食事をしていたとき、会話の中で「だれだれが警察といさかいを起こした」「あぁあいつはカポエイラだろう。普段は分からないけどな」などという話題が出たことがあった。バイーアにテレビが普及しはじめたのもそんな時期だった。我が家にはじめてテレビが来た日、サント・アマロのポポ師匠らによるマクレレのパフォーマンスを見た。真っ白い服を着た真っ黒いネグロが舞い踊る姿、もう完全に魅了されたよ。

当時は家族と暮らしていたから、勉強もしなくちゃいけなかった。のちに働き始めてから、町の中心地にも行く機会ができた。そんなある日、ペロウリーニョでパスチーニャのアカデミアに出くわしたのが、実際のカポエイラとの最初の出会いだった。そこではカポエイラ・アンゴラを見たが、自分が想像していたイメージとはかなり違っていたので、そのときは心を動かされなかった。そんなときに今度はメストリ・ビンバのヘジオナウのアカデミアを見つけた。それはすごかったよ。すぐ入門した。そこで多くの友人を得た。なかには私と同じ地区に住んでいるものもいたが、一度も自分がカポエイラをしているなんて言ったことはなかった。カポエイラはアカデミアだけでするものだったんだ。

ところがある日カンジキーニャの生徒と知り合った。彼は「カンジキーニャもすごいぜ。カンジキーニャのところに来てみろよ。彼のカポエイラは床も上も両方あるよ」と私を誘った。それまでカポエイラといえばヘジオナウしかなかったが、カンジキーニャはまた別のスタイル・考えを持っていた。よりストリートのカポエイラに近いというか、たとえば「いざというときには自分で切り抜けるしかない」というような、その場の状況を読んですばやく対応しなくちゃいけない・・。しばらくカンジキーニャのところにいたあと、彼の生徒になることを決めたんだ。

ちょっと言いづらいことなんだが、ビンバのアカデミアでは差別というか、生徒の中での分離みたいなものがあった。フォルマードはみな上・中流階級の連中で、私としては少し居心地の悪いところがあった。

P: ビンバのアカデミアの中に、そういう階級の上下関係があったということですか。

L: そうだ。あれはなにかお役所関係の行事に呼ばれてデモンストレーションをしに行ったときのことだった。わたしはジーパンをはいて行ったのだが、ポケットにナイフが入っているのを忘れていたんだ。私は当時も今も職人をしているから、当然仕事に使うためのものを持っていたのだが、それがアウーをしたときにポケットから落っこちてしまった。それを見たビンバはひどく怒って、私をグループから追放すると言った。なんとか機嫌を直してもらおうといろいろ試みたが、結局ビンバはあとに引かなかった。本当にばかげたことで私は友人も何もかも失ってしまった。 

カンジキーニャの生徒だったジェニが声をかけてくれたのはそんなときだった。それにしても当時の状況もなかなか複雑で、メストリたちは別のグループから来る生徒を受け入れたがらなかった。あるメストリと始めたら、最後までそのメストリと供にいろ、というような風潮があった。その点カンジキーニャはビンバとはまったく正反対の庶民的な人だった。彼自身が文字通り路上に生きた人で、演劇やサーカス、カポエイラまで万能だった。どこへ行くにもビリンバウを持っていった。今日私があるのは彼のおかげだと感謝している。私が身につけた知識、音楽、マクレレなどほとんどのものは、カンジキーニャとの出会いなしには考えられなかっただろう。

P: ところでメストリ、カポエイラはどこで生まれたのでしょうか?

L: (傍らにいた友人ペドレイロを呼びながら)おーいペドレイロ、こっちへ来いよ。カポエイラはどこで生まれたかだって、答えてくれよ。

P: カポエイラはアフリカ起源だが、生まれたのはブラジルだ。バイーアの近郊(ヘコンカボ)、サント・アマーロやカショエイラ、イリャ・ジ・マレーといった地域だよ。

L: ちょうど昨日ルアンダに関する展示会があって、そこに行ったんだが、ルアンダはじめ他の地域の状況を見ると悲しい気持ちになる。知れば知るほど、カポエイラの中では「知恵」という意味において「博士」にならなくちゃいけないと思う。そのためには私たちはカポエイラについてもっと勉強しなくちゃいけない。

 アフリカン・ダンスのビデオを見てみると、コルタ・カピンやアルマーダ、ハーボ・ジ・アハイア・ソウトなどカポエイラの動きにとても似ているものがある。しかしアフリカには攻防を主体としたカポエイラそのものはないのだろう。ソロのダンサーでカポエイラに似た動きをするのはいても、二人組みの演舞を見たことはない。それはブラジルのネグロ、逃亡奴隷が生み出したに違いない。追手は武装していたし、馬や犬を連れていた。それから逃れるにはよほど強くなければならなかった。

P: あなたのカポエイラはアンゴラに根ざしているのですか?

L: 基盤はまぎれもなくアンゴラだ。ビンバがヘジオナウを作ったのだって、アンゴラの基礎の上に他の要素を取り入れている。実はアンゴラは格闘技としても有効なのだ。ヘジオナウには、空手などと同じように、反復練習を目的としたセクエンシアがある。しかしこれが問題で、反復練習は動きを機械的にしてしまう弊害がある。いったん硬くなった動きをあとで柔らかくするのは難しい。その点アンゴレイロは、体のごく自然な動きを重要なものとして最初から意識している。


P: 外国での経験について話してください。

L: 今日では状況がだいぶ良くなった。今はあらかじめ準備をして方向性を持って外国に出かけることができるが、以前はそうではなかった。当時は冒険そのもので、異文化の中で生徒を見つけ、ビリンバウや歌を教えなければならなかった。しかし逆にそういう時代があったからこそ、今日のヨーロッパでの普及がある。私も向こうに一時滞在し、Oke-Arouというグループを作った。そのグループでは当初から伝統的なものを大切にしてきた。


P: カポエイラとネグロについてどうお考えですか?

L: それについては今日でも大きな議論の的だ。カポエイラは全国に普及し、大学のレベルにまで達したが、その大学の中を見るとネグロはほとんどいないじゃないか。これは文化の白色化といえるかもしれない。もちろんカポエイラはみんなのものだが、それはネグロから始ったものだし、まだまだネグロの多くにマランドラージェン(狡猾さ)などのアンゴレイロ的な特徴が見られる。もっともそれも軍国主義の影響で規律や型にはめられてきているが。列をきちんと作って、一糸乱れず動くことが要求され、私たちは多くのものを失ってきた。その意味ではネグロも自分たちの文化のエッセンスを失い、自らを見失いかけている。その辺にいる金髪にしているやつらを見ろ。まぁ別にいいんだが、それが世間やテレビで流行っているからと言っているようでは、自らの文化は薄らぎ、ほんの一部のものしか継承者がいなくなるだろう。ネグロはもっとそのことを意識して、勉強し、白人に負けないように大学にも行くべきだ。


P: カポエイラの中の女性はいかがですか?

L: 昔はカポエイラをする女性はいなかった。カポエイラは女、とくに子供を差別してきた。今日では誰もが取組める環境になってきたが、長いあいだ楽しめない人々がいた。私が145歳でカポエイラを始めた頃は、まさかヨーロッパやアフリカにいけるなんて想像もできなかったよ。お金が儲かるかどうかは別にして、みんなカポエイラのおかげでありがたいと思っている。


P: 最後にカポエイリスタにメッセージをお願いします。

L: そうだな、いい伝統を受け継いでいって欲しい。それは確かに難しいことだ。もう過ぎてしまったことは仕方がないとして、たとえばバイーアに行くとか、ヘコンカボや有名なメストリがいた地に足を運び、その足跡をたどるなど、どんどん勉強するべきだ。ミナス・ジェライスやマラニャンも興味深いカポエイラがいた所だし、リオも非常に重要だ。メッセージとしては、常に伝統を追求し、謙虚さを失わず、おだやかさを持って、それを実際の行動の中に反映させて欲しい。そしてカポエイラについてもう一度良く考えて欲しい。カミーザが言うように、ジョーゴでのことはジョーゴの中でとどめておいて、それを普段の生活にまで持ち込むべきではない。


28 de setembro de 2003
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→メストリ名 50音順





Mestre AcordeonCamisa Roxa
(Roda de Capoeira - a revista do capoeuropa - no.1, 7/98)

Acordeon:メストリ・ビンバは1889年バイーアに生まれ、10歳でカポエイラを習い始めた。ビンバの先生は、メストリではなかったが、アフリカ人のカポエイリスタで、サルヴァドールとイタパリカを結ぶ船で働いていた人物だった。

 カポエイラはブラジルにおけるアフリカ人たちの遺産的な芸術だ。望むと望まないとにかかわらず、ブラジルはネグロたちの作った国なのだ。私はネグロではないが、さまざまな血の混じったブラジル人であり、私の人生観、ものの考え方は確実に彼らネグロたちの影響を受けているのだ。ブラジル人は、この事実を率直に認め、もっとネグロたちを受け入れるべきだ。なぜなら我々の価値観は、決してヨーロッパのものではないからだ。

 メストリ・ビンバは、アフリカ的なルーツにどっぷり浸かっていた人だった。そしてそれを誇りにし、自ら実践することでそれを私たち生徒に伝えてくれた。まだカポエイラが合法化されていなった時代にである。

当時はまだ政府に認められたカポエイラの道場はなかった。とにかく学校というものを開くこと自体が難しい時代である。メストリ・ビンバは頭を使い、カポエイラの道場とせずに、土着の体操を教えるセンターとして設立を申請したのだ。

 彼独自のやり方、性格や才能は生徒たちにも多大な影響を与えた。彼のカポエイラに対するヴィジョンは生徒に確実に受け継がれ、今日カポエイラ・ヘジオナウとして知られるものが形成されていった。

 私としては、ビンバがカポエイラの仲で新しいことを発明したかどうかを議論することにはそれほど意味があるとは思えない。ただ言えることは、彼は独自の教授法を持っていたということであり、カポエイラのさまざまな要素の中から彼が最もよいと思ったものを選んできたということだ。あるメストリはカポエイラの格闘技的な側面を好み、また別のメストリはダンス的な側面を、あるいは儀礼的な側面を好む。メストリ・ビンバの場合は、戦闘的な側面が大好きな人物だった。だから彼は自分の道場の中でそれをより発展させていった。それがカポエイラ・へジオナウなのだ。

 当時のカポエイラの世界においてヘジオナウの違いというのはとても目立った。しかし今日ではヘジオナウと称してカポエイラをしている人どうしの違いのほうが大きいように思える。もっとも同じ事はカポエイラ・アンゴラをしている人たちにも言えるだろう。

 メストリ・ビンバが始めた当時、相手との距離というのはずっと近かった。それが今日まで発展するにしたがって、どんどん遠くなっている。

 カポエイラについて私たちが知っていることは、氷山の一角に過ぎず、実は隠れている部分のほうが大切なのだ。それはカポエイラの儀礼や歴史について学ぶことだ。結局のところカポエイラにおける知識というのは、その人の人格や経験から形成されるものなのだ。

Camisa Roxa:メストリ・ビンバはカポエイラをするには体が柔らかければ柔らかいほどよいと言っていた。

 メストリ・ビンバについて語る際に、なによりも次の2つのことを抜かすわけにはいかない。一つは彼がカポエイラの道場を開いた最初の人物だということであり、もう一つは彼がカポエイラを教える技術を確立したということだ。ビンバ以前のカポエイラでは、教授法というものはなく、ひたすらジョーゴをして覚えるという状況だった。もっとも今日においてもバイーアのいくつかのアンゴラの道場では、ジョーゴでおぼえる式のやり方を取っているところもある。私がビンバの功績の中で最も重要だと思うのは、やはりセクエンシアの発明だ。そこで我々はカポエイラの最初のステップを学んだものだが、残念ながら今日ではほとんど使われていない。基本的な技のセクエンシアを覚えると、フォルマトゥーラ(修了式)が行われた。転び方を覚えるためのバロンのセクエンシアもしたものだ。ビンバにとってカポエイラはブラジルの格闘技でなければならなかった。ビンバは床に対してどのように着地するかを教えることを常に気にかけていた。だいたい8ヶ月から1年かけてバロンのセクエンシアを学び、その後にフォルマトゥーラがあった。

 このフォルマトゥーラでは2つのことが行われた。一つは仲間とのジョーゴ。その際、真っ白の服を着て、その服を汚さないようにジョーゴをしなければならなかった。もう一つはメダル取り。フォルマトゥーラでは、我々はメダルを胸に付けてもらうのだが、仲間とジョーゴをする中で相手のメダルを取ろうとするものだ。私のときはまだこれがあったが、いろいろな事故が起こったので、その後しばらくしてメストリは止めてしまった。

Acordeon:フォルマトゥーラは私たちのカポエイラ人生の中でまさに最高の瞬間だった。メストリ・ビンバには何百人という生徒がいたが、その多くはフォルマトゥーラが終わるととたんに練習に来なくなってしまった。しかしフォルマトゥーラの日だけは、その盛り上がり方といったら凄まじいものがあった。

 ノルデスチ・ダ・アマラリーナの坂を上がっていくと、ビリンバウの音が聞こえてくる。するともう体が震えてきたものだ。それは不思議な魔力を持っていて、小さな道場の中の非常に大きなイベントだった。

Camisa Roxa6ヶ月や8ヶ月、あるいは1年くらいではカポエイラを覚えられるはずもない事は誰でも知っている。フォルマトゥーラが終わると、イウナのジョーゴの練習も始まる。それは特別なジョーゴで、ビンバはイウナ独特のステップをするように注文をつけたものだ。実際、フォルマトゥーラから本当のカポエイラ修行が始まるのだ。

 イウナのジョーゴはフォルマード(修了生)だけがすることを許された。なぜならそのジョーゴは美しくなければならず、アクロバチックで床の動きも多かった。ビンバはバロンをすることも要求した。それはもはや別のレベルのカポエイラで、フォルマトゥーラのときのジョーゴとはまったく別物なのだ。

 ビンバは独自の教授法を持っていた。最初は高い姿勢の動きを学び、それが大体できると、低い姿勢の動きを学ぶ。へんな議論を巻き起こすつもりはないが、私はビンバの道場の出身で、彼にこの上なく感謝している。しかし私にとってカポエイラは一つであって、すなわち高い動きも低い動きもできなければならないのだ。立った体勢のジョーゴしかできない者、床の動きしかできない者は、どちらも優れたカポエイリスタと言うことはできない。

 カポエイラの芸術性は完全なものでなければならない。私の見るところ、ビンバの多くの生徒は完全なカポエイラを学ぶ機会に恵まれながら、その後のカポエイラの発達についていっていないように思われる。


Acordeon:アンゴラとヘジオナウについて話すのはなかなか複雑だ。というのも今日我々がアンゴラとかヘジオナウとか呼んでいるものは、30年前に私が見ていたものとぜんぜん違うからだ。ヘジオナウといえばビンバのものだったが、今日ではそれぞれが自分なりの要素を付け足してそれぞれの道を歩んでいるのだ。
Camisa Roxa:あの話をしろよ。79年に日本人との間で起きた一件を・・・。

Acordeon:待て待て、今はその話をするためにここに来たんじゃないんだから・・・。ところで我々の時代には女性のカポエイリスタがいなかった。当時カポエイラは完全に男のするものだった。それが今ではどんどん女性が増えてきている。米国では多くの女性がカポエイラをしている。ここヨーロッパでも状況は同じだ。こういう状況はブラジルの女性を逆に励ますだろう。

Camisa Roxa:私はビンバの学校の話に戻りたい。月謝の話なんだが、問題はこういうことだ。道場があった地域は、無職のものが多かった。連中はカポエイラを習いたかったが、金は払いたくなかった。メストリは、「いいか、習いたいなら、きちんと月謝を払え。もちろん払うためには仕事をしなくてはならぬじゃろう。学生であれば別じゃが、仕事もせずに怠けているのは許さん」と言っていたものだ。彼の言い分は正しい。政府も役所もメストリを援助していなかったし、彼だって生活がかかっていたのだ。なぜ無料で教える必要などあろうか?

Acordeon:ビンバの学校は、バイーアの人口を反映していた。つまりはほとんどがネグロだった。私のような白いものは実際のところ少数派だった。それははっきりさせておかなければならない。下層のものも多くいた。それがバイーアの現状だったのだ。私を含めて、何人かは中流のものもいたが、そういう人間はビンバの道場だけでなく、パスチーニャの道場にもいたのだ。

Camisa Roxa:メストリ・ビンバにせよメストリ・パスチーニャにせよ、カポエイラの指導者としてしかるべき助成を行政から受けることができなかった。ビンバはブラジルで最初のカポエイラ道場をバイーアに開いた。しばらくすると中国や日本など東洋から格闘技が流れ込んできた。そして生徒は分散し、カポエイラはその影に埋もれてしまったのだ。結局メストリはゴイアスでカポエイラを教える誘いを受ける。彼がすでに70歳を過ぎていた頃だ。1973年以来私は海外にいたのだが、ビンバは約1年後には道場を売ってしまい、ゴイアスで新しい生活を試みることになった。

Acordeon:私が付け加えたいことは、我々ブラジル人は、自分たちが持っているものを正当に評価すべきだということだ。カポエイラも誰も真剣にその価値を理解しなかったために、メストリ・ビンバもパスチーニャも人生の中で自らをすり減らさなければならなかった。彼らは当時政府が見向きもしなかったもののために戦ったのだ。最後に一つだけ言っておきたい。私はそんなに金を稼いでないし、ほかにもたいして金を稼いでいるカポエイリスタを知らない。それでもなんとかやっている。ビンバとパスチーニャは極貧の中で死んでいった。我々のように外国にいるカポエイリスタはもっと団結し、お互いに尊重し合い、お互いに発展していかなくてはならない。そして共通のテーマに取り組んでいるんだという意識を持って、カポエイラをするすべての人の役に立っていくべきである。

7 de outubro de 2005
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翻訳:Liberdade(久保原)