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メストリ・ビンバとカポエイラ・ヘジオナウ

メストリ・ビンバ

bimbagingandoメストリ・ビンバ(本名:Manoel dos Reis Machado)は1889年11月23日、バイーア州サルバドール市のブロッタス町エンジェーニョ・ヴェーリョ区に生まれた。カポエイラは12歳で始める。師匠はバイーア船会社で働いていたベンチーニョ(Bentinho)で、いわゆる伝統的なタイプのカポエイラ(≒カポエイラ・アンゴラ)だった。18歳のときに最初のカポエイラ学校を作ったが、まだヘジオナウは考案されていなかった。彼の学校にはネグロ、ムラートなどの大衆層に混じって、元州知事の家族やジャーナリストなど、上流階級のものもいた。上流の人には、それぞれの家に赴いて個人教授の形を取っていたらしい。まだ実質的にカポエイラが取り締まりの対象にされていた時代であった。

ビンバの父ルイス・カンジド・マシャードはバトゥーキ(batuque)のチャンピオンだった。現在では誰も継承しているものがいないが、バトゥーキとは膝などで相手の足を蹴り、倒す格闘技だったらしい。ジャイール・モウラの映画「戦士たちのダンス」の中に古老たちがバトゥーキをしているシーンが収められているが、高齢のメンバーばかりであるせいかとても格闘技らしくは見えない。ボジ(プリミティブなパンデイロ)のリズムに合わせて行われており、一見すると男だけによるサンバ・ジ・ホーダのように見える。

bimbavslutalivreビンバがヘジオナウを創出したのは、それまでのカポエイラが技のレパートリーも少なく、単なる振り付けダンスのようになってしまっていて、もはや格闘技として有効でないという理由からであった。伝統的なカポエイラとバトゥーキを組み合わせて、ルッタ・ヘジオナウ・バイアーナ(のちのカポエイラ・ヘジオナウ)を編み出した。36年から1年ほどはヘジオナウの有効性を証明するために、あらゆる格闘家の挑戦を受け、数々の武勇伝を残す。当時は興行として異種格闘技戦が頻繁に行われており、カポエイラもリングに上がっていた。いわゆるアンゴラ系のカポエイリスタも登場しており、たとえばメストリ・パスチーニャをそのほかのメストリたちに引き合わせたアベヘ(Aberrê)がビンバと対戦した記録も残っている。

32年、ビンバはヘジオナウ体育文化センター(Centro de cultura física Regional)を設立、37年7月9日、州政府の教育省に正式に認可される。ここにカポエイラ道場第1号が公式に誕生した。

bimbaevargas1953年にはジェツーリオ・ヴァルガス大統領の官邸に招かれ、カポエイラのデモンストレーションを行った。大統領は「カポエイラこそ真の意味でブラジル的なスポーツだ」と、うなったとされる。その後もサンパウロ、フォルタレーザ、リオ、ミナス・ジェライスとブラジル中を周り、ヘジオナウのデモンストレーションを行って歩いた。

1971年、サンパウロにいた弟子のアイルトン・オンサ(Ailton Onça)に招かれ、サンパウロへ。このときにブラジリア、スアスナら主要なメストリにカポエイラの普及を任す認定書を発行した。

同じ年、ゴイアニアの弟子オズワルド・ソウザ(Oswaldo Souza)からの依頼でゴアイニア博覧会(Expo-Goias 71)でデモンストレーションを行う。このときの当地の丁重な歓迎のし方に感動したビンバは、翌72年、最愛の地サルバドールに別れを告げ、ゴイアニアへ移住することになる。これもオズワルドの提案によるもので、カポエイラ専用の学校にすでに生徒がたくさんおり、ビンバの家族に家まで用意するという条件が提示されていたという。かねてからバイーア州やサルバドール市が何の援助もしてくれないことに不平をもらしていたビンバは、これらの条件に身震いし、移住を決意した。サルバドールの家や道場も二束三文で売り払い始め、残される弟子たちもなすすべがなかった。現在メストリ・バンバが率いるペロウリーニョのAssociação Mestre Bimbaを、バンバの師匠ヴェルメーリョ27が買い取ったのもこのときである。

ところが移住してみると提示されていた条件とは食い違う現実に直面し、ビンバとオズワルドに意見の相違なども生じて、経済的にもカポエイラの普及についてもビンバが期待していたものは実現しなかった。その2年後、1974年2月5日、ビンバは異国の地で生涯を終えた。78年7月、カルロス・セナ、アリッセ夫人、イタポアンらにより、ビンバのなきがらはサルバドールに移される。一行がサルバドールの空港に着いたとき、まるでビンバが生きて戻ってきたかのような出迎えに取り囲まれたという。ビンバの弟子、マスコミ、古いメストリたちが英雄の帰郷を歓迎した。こうしてバイーアを心から愛し、そこで数々の武勇をはせた最高のカポエイリスタは、やはりバイーアに眠ることになった。

 

メストリ・ビンバの業績

教授法の確立

sequenciazu 1週間の練習回数、練習時間を定めた。それまで地域や人によってばらばらだった技、動きの名前を統一しようとし、すくなくともヘジオナウの技については名称を特定した。セクエンシアという、技・動きの組み合わせパターンをつくり、それを反復練習させることによって習得の効率性を飛躍的に高めた。それまでのカポエイラが、「見て覚えろ」式であったのに対し、練習体系の確立は画期的なことだった。この教授法の確立こそがビンバの最大の功績だったと評価されているくらい。

入門の許可制

ビンバは、それまでならず者のたしなみとして悪く見られていたカポエイラのイメージを変えるために、生徒を選んだ。入門希望者は学生証か労働手帳を持っていなければならず、身体能力についても特定の動き(ココリーニャ、ケーダ・ジ・ヒン、ポンチ)ができるかどうかのテストが行われた。それに合格したものだけが入門を許されたのだった。

ビンバの道場には大学生など中流階級の白人の若者が多く集まり、これが今日まで「ビンバはカポエイラを大衆から取り上げ、エリートだけのものにしようとした」と批判される原因になっている。しかしこれに対しては「ビンバの学校には貧しい黒人も常にいたし、そういう人からは月謝も取っていなかった」という報告もあって、ビンバが経済的に裕福なものだけを選んでいたというわけではなさそうだ。

規律

道場の壁には次の9項目が掲げられていた。ヘジオナウのイメージアップのためでもあっただろうし、カポエイラを通じて健康増進、道徳的な向上を目指した点で、今日の体育教育に共通する考え方がうかがえる。
1. タバコを吸うな。練習中は禁煙とする。
2. 酒を飲むな。アルコールは筋肉の働きを鈍らせる。
3. カポエイラの知識をホーダの外でひけらかすな。不意打ちが最大の武器と知れ。
4. 練習中の無駄話は避けよ。他の者の練習にも注意を払うこと。
5. 常にジンガするように心がけよ。
6. 基本動作の練習は毎日行うこと。
7. 後輩に追いつかれることを恐れるな。
8. 常に体をリラックスさせておくこと。
9. 外で恥をかくより、ホーダで恥をかいたほうがいい。

バチザード(洗礼式)

今日ではすっかり定着しているバチザードをはじめたのもビンバだった。ただ今日では初心者が最初のコルダゥンをもらう儀式をバチザードと呼ぶのが一般的だが、本来のビンバのバチザードは、初心者が初めてビリンバウにあわせて練習が許される出来事のことを言った。それ以前の基本練習は楽器の伴奏を伴わずに行われていた。またこのときにカポエイラの中のあだ名をつけてもらう。これらはあくまでも普段の練習の日に行われた。そして後日、人数がまとまった段階でお披露目を目的としたバチザードのイベントが行われたという。

フォルマトゥーラ(修了式)

formatura ビンバは、週3回、1回1時間の練習を約6ヶ月続ければ、基本コースを修了することができると考えていた。このレベルに達した生徒はノルデスチ・ダ・アマラリーナ区にあった道場に呼ばれ、毎週日曜日、4週間にわたって「修了式」に参加することを認められるかどうかのテストを受けなければならなかった。4日目の練習の最後に名前を呼ばれたものだけがフォルマトゥーラに臨むことができた。

フォルマトゥーラは生徒にとって最高の晴れ舞台だった。服装は全員が上下白。修了生たちは、ビンバが命じる技を見物客たちの前で正確に披露させられた。万が一間違えると、後でビールを1ダースおごらされたという。続いてシントゥーラ・デスプレザーダ、ジョーゴ・ド・フロレイオ(jogo do floreio);アクロバッチクなうえに服を汚すことは許されないジョーゴ、エスケッチ(esquete);シントゥーラ・デスプレザーダを含む申し合わせのジョーゴなど、一連のパフォーマンスが行われたあと、メイン・イベントであるチラ・メダーリャ(Tira medalha)が待っていた。これは胸にメダルをした修了生たちが先輩修了生とジョーゴをし、先輩は足でメダルを奪おうとする。見事メダルを守り通せたものが最終的に合格、メストリ・ビンバの正式な弟子と認められた。このあとは自由なホーダ、サンバ・ジ・ホーダと続いた。

特別講習(Curso de especialização)

フォルマトゥーラのあとには修了生のみを対象とした特別講習があった。期間は3ヶ月で、カポエイラを土台にした実践練習だった。多人数の敵に囲まれたときの対処法、武器を使った格闘術などが教えられた。最初の2ヶ月は道場で、最後の1カ月は森の中でゲリラさながらの練習が行われたという。この特別講習は、1回目を受けて1年後に、2回目を受講する。内容に大きな違いはなかったというが、1回目修了後には赤のネッカチーフ、2回め修了後には黄色のネッカチーフが与えられた。ちなみに特別講習を受ける前の、単なる修了生は青色のネッカチーフで、この段階ではコルダゥン(腰ひも)はまだ使用されていなかった。

 

 

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