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あなたのカポエイラはどれですか?

■サンパウロのアンゴラ団体FACA(Federação Anarquista de Capoeira Angola)の代表を務めるフイ・タケグマが、2002年2月にたいへん刺激的な小論文を発表しました。タイトルはずばり「Qual é a sua? (あなたのはどれ?)」。この中で彼は、アンゴラ、ヘジオナウの定義をはっきりさせ、そこからはみ出るものをすべてカポエイラ・コンテンポラニアという枠組みの中に放り込んでしまいました。その論じ方がとても明快で、小気味いいものだったので、私もすっかりファンになってしまい、2004年9月にブラジルに行ったとき、彼を訪ねて行ったくらいです。実際に会って話してみると、イメージしていたのとは少し感じの違う人物でしたが、彼との議論は私自身の考えをはっきりさせるうえでも、非常に実り多いものでした。ここでは私の考えをベースにしてカポエイラのちょっとした分類をしてみたいと思います。

第1幕 ヘジオナウとアンゴラ

ヘジオナウとは誰か?

bimba2■まずカポエイラの中でもっとも定義がはっきりしているのはカポエイラ・ヘジオナウです。メストリ・ビンバという特定の創始者がいて、技の名前、ビリンバウのトーキの種類、使用する楽器のフォーメーションまで定めているわけですから、そこから外れるものはヘジオナウと認めることはできません。またその歴史もビンバが道場を設立した1932年から始まるわけで、今日までわずか74年しか経っていません。こういう状況の中でヘジオナウを正式に名乗る資格のある者は、その直系の弟子たちだけということになります。

■少し身近に感じるために空手の世界を例にとって見ましょう。あるとき大山倍達という人が極真空手を作りました。では誰が「私は極真空手をしている」と名乗れるでしょうか?当然、極真の道場に入門した練習生ですよね。大山の著書を読んだり、格闘技雑誌に掲載されたコマ写真を見ただけで、「極真空手をしている」ということはできません。大山のもとで何年も修行し、段位を取って、支部長などに任命された人たちが、本部の認可を得て初めて極真の看板を掲げられたはずです。このようにして次にその支部に入門する人も、正統性を持って「自分は極真空手をやってるよ」と言えるようになるわけですね。

■カポエイラ・ヘジオナウの場合もこれと同じ理屈で考えることができます。正統性を持って(ここが重要なんですが!)ヘジオナウを名乗るためには、メストリ・ビンバに直接教えを受けたか、あるいは直接教えを受けた人の弟子(の弟子・・・)ということになります。したがってビンバの道場を窓からのぞいていたとか、どこかで彼らのホーダを見かけたとか、あるいは本やビデオでヘジオナウについて勉強したという人が、「自分はカポエイラ・ヘジオナウをしている」と名乗るとしたらどうでしょう?たとえ技術的にはきわめて正確に「ヘジオナウ」を習得していたとしても(後に見るように、これは不可能ではありません)、そこに正統性を認めるわけにはいきません。この場合には「私はヘジオナウの心棒者(ファン)だ」とか「私のカポエイラはヘジオナウ的だ」という言い方は許されるでしょう。
このようにすべてのカポエイリスタの中でヘジオナウの人を特定するのがもっとも容易で確実なことなのですね。

■「自分はカポエイラ・ヘジオナウを学んでいるんだ」と思っていた人。あなたの先生、そのまた先生たちは、メストリ・ビンバの直系ですか?まずこれが第1のチェックポイントです。

■しかし残念ながら、これは必要条件であっても十分条件ではありません。なぜなら人間は変化するからです。ビンバの直弟子であっても、教えている内容はぜんぜん違うものということもあるわけです。そういう先生について学んでいる場合は、やはりヘジオナウをやっているとは言えないですよね(言うまでもないことですが、その先生の教えている内容がいいか悪いかということとは全く関係ありません)。

■では何を付け加えたら、あるいは何を省いてしまったら、もはやヘジオナウとは見なされなくなってしまうのでしょうか?この問題については、私自身、ヘジオナウを学んだことがありませんので、生半可な知識で定義することはできません。ここではビンバの2人の直弟子、メストリ・カフネ【Mestre Cafuné】とメストリ・アコルデオン【Mestre Acordeon】の回想を紹介するに止めておきます。

「素人の中にはヘジオナウは立ってジョーゴをするものだと思い込んでいる人がいるが、ビンバに教えられたカポエイラ・へジオナウは、床と非常に緊密な関係にある。『降りろ、降りろ』というメストリの声が常にアカデミアに響いていたものだ。ココリーニャ、ネガチーヴァ、ケーダ・ジ・ヒン、ハステイラ、アウー、ホレー・・・、すべての動きが床との接触に大きく関わっている。・・・・今日多くのカポエイリスタは、床を空中に飛び跳ねる踏み切り台としてしか使っていない」(メストリ・カフネ『Praticando Capoeira』 no.12)

「ビンバのカポエイラは彼の性格や特徴を直接的に反映していた。当時としては画期的な練習方法を採用し、なにより彼自身がカリスマ的な存在だった。ビンバがビリンバウを弾き、歌いだすと、その場は独特な雰囲気に包まれた。サン・ベント・グランジ(São Bento Grande)はより格闘技的に、バンゲラ(Banguela)は床の動きが中心、イウナ(Iúna)は修了生だけに許されたエレガントで高度なジョーゴだった。これらすべてがヘジオナウを特徴付ける要素だし、さらにいうなら1本のビリンバウ、2枚のパンデイロ以外のものを使った段階で、もはやビンバのヘジオナウではないのだ」(『メストリ・アコルデオンRevista Capoeira』 no.7)

アンゴラとは誰か?

■ここから先の話を3倍理解しやすくするために、ちょっと話題を変えます。簡単な説明ですので少しだけお付き合いください。
ここに日系ブラジル人の子供がいます。彼のお父さんもお母さんも日系ブラジル人で、彼の容姿も当然日系。見ただけでは日系ブラジル人か日本人か分かりません。日本語もぺらぺらで、日本のアニメやゲームが大好きな彼は、自分のことを日本人だと信じていました。ところが彼はアントニオというブラジル名や日本語が書けないことが理由で小学校でいじめにあっていたのです。
さてアントニオ君は国籍から見れば正真正銘のブラジル人です。ところが自分では日本が好きだし、日本人だと思いこんでいます。しかし周りの友人から見ればやはり彼はブラジル人だと映ります。ここでアントニオ君にとっての不幸は、自分は日本人だよという「名のり」とお前はブラジル人だという「名づけ」のズレなんですね。
自分で自分のことを「私は~だ」と定義することを文化人類学の用語で「名のり」といいます。いわゆるアイデンティティーというやつですね。これに対して、「あいつは~だ」と他者を定義づけることを「名づけ」といいます。このことを頭の片隅において、この先に進みましょう。

■それまでカポエイラ、カポエイラージェンという呼び方しかなかったところへ、メストリ・ビンバがルタ・ヘジオナウ・バイアーナ(のちのカポエイラ・ヘジオナウ)を立ち上げて、「自分たちは他のカポエイラとは違うんだ」といいました。これは「俺たちはヘジオナウだ」という「名のり」です。自分をこれこれだと定義するためは、必ず自分と比較する対象(=自分を映す鏡)を必要としますね。メストリ・ビンバにとっては、「伝統的なカポエイラ【capoeira tradicional】」という漠然とした対象がありました。

pastinha■ビンバのヘジオナウに対抗するアンゴラの巨星としてメストリ・パスチーニャが持ち上げられますが、ビンバが異種格闘技戦で無敗を誇り、ヘジオナウの有効性をアピールしていたころ、メストリ・パスチーニャはカポエイラから遠のいていました。むしろその当時、伝統的なカポエイラを支えていたのは、ノローニャ、リヴィーノ、マレー、アモローゾといったカポエイリスタたちからなるグループ「コンセイサゥン・ダ・プライア【Conseicao da Praia】」だったのです。諸般の事情で、このグループから突然リーダーを任されたパスチーニャは、それまでの伝統的なカポエイラの総称としてカポエイラ・アンゴラという呼び方を提唱します。ここにおいてアンゴラという名称は、ヘジオナウに対抗する概念として、新たに創り出されたのです。ここで「俺たちはカポエイラ・アンゴラなんだ」という、もうひとつの「名のり」が登場しました。このグループは後にカポエイラ・アンゴラ・スポーツ・センター(Centro Esportivo de Capoeira Angola)という名前で登録されます。比較のライバル(鏡)とされたのは、言うまでもなくヘジオナウでした。

■では突然ですが質問です。アンゴラとヘジオナウ、どちらが「古い」のでしょう?上の流れを見て、皆さんはどう思いますか?メストリ・ビンバがヘジオナウを創出する以前からカポエイラはありました。当然ですね。ビンバ自身がカポエイリスタだったのですから。ではそれがそのままカポエイラ・アンゴラだったのでしょうか?ここにアンゴラ/ヘジオナウ問題の核心のひとつがあります。少なくとも当時、カポエイラ・アンゴラという名称は存在しませんでした。新聞、雑誌、紀行文、研究書・・・なにをみてもカポエイラ・アンゴラという呼び方はこれまでのところ確認されていません。当時のカポエイラは単に「カポエイラ」あるいは「ヴァジアソン」と呼ばれていたのです。というわけで変な話ですが、もしヘジオナウの登場がなければ、カポエイラ・アンゴラという積極的なまとまり意識、「名のり」は生まれてこなかったとも考えられるわけです。この意味で誕生の順番は、ヘジオナウの次にアンゴラとなるんですね。

■「でもちょっと待って。そうは言ってもやっぱりヘジオナウ以前からあったカポエイラがアンゴラじゃないの?」「たとえアンゴラという意識や呼称はなかったとしても、実体としてのアンゴラはそこにあったんじゃないの?」というわだかまりが胸につかえている人も多くいると思います。事実パスチーニャ自身はそのようにアンゴラを捉えていました。この問題はもう少し寝かせておきたいと思います。

■ところでひとつ確認しておきたいことは、カポエイラ・アンゴラという「名のり」のなかに誰が含まれていたか、ということなんです。ビンバが、「伝統的なカポエイラ」と見なしたものが、すべて一枚岩として「カポエイラ・アンゴラ」の中に含まれたのでしょうか?そんなことはありえません。パスチーニャたちが、たとえばリオのカポエイラまでアンゴラという括りに含めなかったのは明白ですし、同じバイーアの中であっても、サルヴァドールから離れた地域のカポエイリスタたちは、自分たちのカポエイラがアンゴラというカテゴリーに分類されるようになったことなど知る由もなかっただろうと想像します。今日のようにカポエイラの専門雑誌もインターネットもない時代です。パスチーニャたちの動向を知らない、「ヘジオナウ以外のその他のカポエイリスタ」たちにとっては、あいかわらず「カポエイラはカポエイラ」というだけのものでしかなかったのです。

■先ほどの「名づけ」と「名のり」の話で言えば、ビンバの側から「伝統的なカポエイラ」と「名づけ」られたカポエイラの中には、パスチーニャたちの「カポエイラ・アンゴラ」という「名のり」に参加していた人たち以外に、そこに参加していない(知りもしなかった)伝統的カポエイリスタたちもたくさんいたということです。したがってこの時点ですでに、カポエイラをヘジオナウかアンゴラかという二元論で論じることがあまり正確でないということなんですね。この見方がかろうじて妥当性を持つのは、バイーアのサルヴァドール周辺においてのみということです。ではへジオナウからもアンゴラからもはみ出したカポエイリスタたちは、いわゆるコンテンポラニアなのでしょうか?そんなわけないですよね!

■ここでもうひとつ質問です。今日カポエイラ・アンゴラをする人たちをアンゴレイロといいますが、上に見たような、パスチーニャの「名のり」に関与していない伝統的カポエイリスタたちには、当然「自分はアンゴレイロだ」というアイデンティティーはありませんでした。では彼らはアンゴレイロと見なされないのでしょうか?もしここで彼らもアンゴレイロだと言うとすれば、アンゴレイロたるためには必ずしも自覚は必要なく、客観的にこれこれこういう要件を満たしている人はたとえ本人が自覚していなくてもアンゴレイロだと言えることになります。これに対して、アンゴレイロかどうかの基準を、誇りとか哲学とか精神的な要素に求める人たちにとっては、当時バイーアの地方に散らばっていた伝統的カポエイリスタはアンゴレイロとはいえないということになりますね。

■さて、上記のような理屈にもかかわらず、実際の伝統的カポエイラの流れは、パスチーニャをリーダーとするアンゴラを中心に動いていきます。それはサルヴァドールが政治、経済、メディアの中心だったという外因に加えて、パスチーニャ自身の非凡な才能に大きく依っています。寺田寅彦だったかの言葉に「みんながどう言えばいいか口をモグモグさせているときに、ズバリとその本質を説明してくれる人がいる。それが天才である」というのがありましたが、この意味でパスチーニャはまさに天才でした。彼は、カポエイラは「自由を切望した奴隷たちのマンジンガだ【Mandinga de escrevo em ânsia de liberdade】」などと、スパッと言い放ちます。そこで使われる言葉、詩的な表現そして深い思索は、教育を受ける機会に恵まれなかった多くのカポエイリスタたちにとって容易にまねできるものではありませんでした。

■1964年、パスチーニャは『カポエイラ・アンゴラ』を著わし、「護身術、肉体鍛錬の手段としてカポエイラの可能性」を示しながら、「カポエイラを通して心身のバランスの取れた真のスポーツマンを育てることができる」としています。彼の考え方の大きな特徴は、精神世界と物質世界を切り離さないところでした。「優れたカポエイリスタは魂のままに動く者だ」「もしカポエイラが宗教であるなら、カポエイラのメストリはさしずめ最高司祭である」などという言葉も残されています。パスチーニャによって、それまで混沌としていた伝統的カポエイラの世界に、フンダメント【fundamento】(カポエイラ・アンゴラに取り組むに当たって必要な知識や心構え)が形成されました。これによって、以後、意識的にカポエイラ・アンゴラを選択する人は、このようなパスチーニャの思想に大きく影響されることになります。

■今日のアンゴレイロたちが過剰なまでに精神性を重んじる起源はこの辺りにあるのですね。この意味において今日のアンゴレイロの生みの親はメストリ・パスチーニャだといっても間違いではないのです。しかしその哲学、精神性は伝統的なカポエイラに本質的に内在していたものではなく、パスチーニャという類まれな才能を持った個性が解釈し、後付した思想であるという点を確認しておきたいと思います(だって、そうですよね、同じものからメストリ・ビンバはヘジオナウを創り出しているわけですから)。さらにカポエイラ・アンゴラの伝統性、バイーア文化におけるアフリカ性を強調するパスチーニャの姿勢は、当時のバイアーノ知識人たちの共感も得、ジョルジ・アマード、カリベ、マリオ・クラーヴォらとも親交を深めていきます。こうしてパスチーニャのカポエイラ・アンゴラはヘジオナウに対抗する主軸となったのでした。

休憩

休憩がてら、この時代のカポエイラの状況を簡単に振りかえっておきましょう。
1932年 メストリ・ビンバがヘジオナウのアカデミアを設立
1934年 ジェツリオ・ヴァルガスの独裁政権がカポエイラやアフロ宗教を禁ずる法律を廃止
1937年 バイーア州政府にビンバのアカデミアが公認受ける

1941年 パスチーニャらカポエイラ・アンゴラ・スポーツ・センターを設立
50年代 ビンバもパスチーニャもそれぞれのカポエイラを普及するため弟子たちを引き連れてブラジル全土を旅行

1964年 リオでグルーポ・センザーラの発足
1966年 パスチーニャら、セネガルの黒人芸術国際フェスティバルに参加
1967年 サンパウロでブラジリアとスアスナがコルダゥン・ジ・オウロを結成
1968年 航空スポーツ協会後援の第1回カポエイラ・シンポジウム。技の名称などの統一化が目的
1969年 航空スポーツ協会後援の第2回カポエイラ・シンポジウム。メストリ・ビンバ途中退席

1971年 パスチーニャ、ペロウリーニョのアカデミアを失う
1972年 教育文化省がカポエイラをスポーツと認定
メストリ・ビンバ、ゴイアニアへ移住
1974年 メストリ・ビンバ、ゴイアニアで死去
サンパウロ・カポエイラ連盟が発足

1980年 リオでメストリ・モライスがGCAPを設立
1981年 メストリ・パスチーニャ死去

1982年 モライスの帰郷に伴い、GCAPがサルヴァドールに移転
1984年 メストリ・ジョアン・グランジがカポエイラに復帰
1986年 ビンバの息子メストリ・ネネウがフィーリョス・ジ・ビンバを結成。
父の遺志を継ぎ、純粋なヘジオナウの復興を目的として活動を始める

第2幕 「コンテンポラニア」の出現

■40年代、50年代にかけてビンバとパスチーニャのカポエイラはひとつのピークを迎えます。60年代にはリオやサンパウロに現在のカポエイラの発展の礎を築いた若手カポエイリスタたちが活動を始めます。70年代はバイーアのヘジオナウ、アンゴラ双方にとって決定的なダメージをこうむった時期になりました。ビンバがバイーアから去り、74年に異郷ゴイアニアで死去。パスチーニャもだまされて道場を失い、脳溢血に倒れ、ほぼ失明状態の中、81年養老院で92年の生涯に幕を閉じます。

■バイーアの衰退と平行して、ブラジル南部の大都市においては、よくも悪しくもカポエイラが飛躍的に普及していきました。サンパウロの事情については「カポエイラ研究室」に雑文を書いていますが、そこではさまざまな地域出身のカポエイリスタたちが交流し、アンゴラとヘジオナウが混ざったスタイルが育っていきました。バイーア州はイタブナ出身のスアスナはヘジオナウ系、カンジキーニャの弟子であったブラジリアはアンゴラ系でしたが、この2人が共同でコルダゥン・ジ・オウロを立ち上げました。サルヴァドールでは考えられないコラボレーションが、サンパウロで実現したのです。

Sinhodinho■リオにおいても、マウタ【malta】(カポエイラのギャング団)たちが活躍した19世紀のカポエイラ、その後カポエイラの国技化を目指したズーマ、シニョジーニョたちのカポエイラは忘れ去られ、完全にバイーアのカポエイラに取って代わられます。中でもその橋渡し役として大きな影響力を持ったグルーポ・センザーラの若者たちは、ビンバの弟子たちとの接触を中心としながらも、バイーア詣でを重ねる中で、伝統的なカポエイラのメストリたちからも多くを吸収しました。

■パラナ州のクリチバでは、1973年メストリ・セルジッピによってカポエイラが紹介されました。セルジッピはメストリ・カイサーラの弟子でしたが、やはりアンゴラをそのまま継承しませんでした。1975年、リオからメストリ・ブルゲイスがやってきて、グルーポ・ムゼンザが活動を始めます。彼のスタイルは、当初からアンゴラもヘジオナウも両方するとしたものでした。

■このような南部において発達したカポエイラが、今日で言うところの「カポエイラ・コンテンポラニア」の土台です。しかし当時は「コンテンポラニア」などという「名のり」も「名づけ」も存在しませんでした。そもそも「コンテンポラニア」というポル語は、英語の「コンテンポラリー」に相当し、「現代の」「同時代の」という意味です。そうすると、これほど無意味な名づけ方もないわけで、つまり今は現代でも、10年後には過去になるわけですね。じゃぁその時点で今のコンテンポラニアはどう呼ばれるのかということになってきます。ネオ・コンテンポラニア、ポスト・コンテンポラニアみたいな呼び方が出てくるのでしょうか?

■では当時のサンパウロやリオではなんと呼ばれていたのでしょう?答えは単にカポエイラです。そこではアンゴラもヘジオナウも両方教えるという宣伝文句が注目を集めました。「1つで2度おいしい」というわけですね。しかし実際は、アンゴラ(パスチーニャ派という意味での)でもなければヘジオナウでもない、両方のオリジナルからかけ離れたタイプのカポエイラが広がり始めていたのです。もちろんこういうタイプのカポエイラの出現それ自体が間違いだとは誰にもいえません。ビンバにせよ、パスチーニャにせよ、独自の解釈によって新たな要素を付け加え、それまでのカポエイラを変化させたという点ではいっしょなのです。ビンバに許されたことが他の人には許されないという道理はありません。いかなる時代においても、伝統とか文化というのは絶えず創り出されるものだからです。ただ、ひとつ批判を受けるとすれば、これをもってヘジオナウとアンゴラを両方すると名乗ってしまうことですね。最初からアンゴラでもヘジオナウでもないと言っておけば良かったわけです。

canjiquinhapb■アンゴラとヘジオナウの融合についてですが、、実はサルヴァドールでもビンバ、パスチーニャの時代から、両者の交流や結果としての融合の動きは見られていました。見かけ上のライバル争いとは別に、パスチーニャの生徒もビンバの生徒も交流はあったのです。ビンバの生徒がパスチーニャのホーダに行くときは、ヘジオナウの技を封じて使わなかったといわれています。そのような状況の中で「カポエイラはヘジオナウもなければ、アンゴラもない。自分はカポエイリスタだ。ただしカポエイラは、ビリンバウのトーキによって変わる。フェスタに行って、ボレロが流れればボレロを踊るし、サンバが流れればサンバを踊る。カポエイラも同じだ。ビリンバウがゆっくりになれば、ねちっこいジョーゴをするし、スピードが速まれば動きだって速まるのだ」という、メストリ・カンジキーニャの発言なども生まれてきました。

■同時に今日考えられているほど、当時のヘジオナウとアンゴラはかけ離れたものではなかったのも事実です。「メストリ・ビンバとカポエイラ・ヘジオナウ」に掲載したビンバのグアルダを見てもお分かりの通り、その柔らかさはアンゴレイロと見まごうほどですし、逆にアンゴラのメストリの中にも立った姿勢を多用し、直線的でハードな攻撃を繰り出す人もいたわけです。したがって、この時点での「カポエイラはひとつだ」という見解にはそれなりの説得力もあったんですね。カンジキーニャ以外にも、画家のカリベも「カポエイラはひとつだ。変化はビリンバウのトーキによるものだ」と言っています。

■ところで実はパスチーニャも「カポエイラはひとつなんだ【capoeira é uma só】」という発言をしています。しかし彼の場合は、要するにアンゴラだけしかないという意味での発言でした。「ビンバもわしと同じくらいアンゴレイロなのじゃ」として、ヘジオナウ以前のカポエイラはアンゴラなのだと考えていたのです。今日アンゴラのコヒードで「capoeira é só angola」と歌われるのは、この考え方の名残りだと考えられます。ともあれ、このような「カポエイラはカポエイラ。それはひとつなんだ」という言説が、南部というまた別の文脈で都合のいいように再解釈されていくことになります。

■このような南部のカポエイラの影響は、カポエイラの聖地サルヴァドールにも逆輸入される勢いを持ちました。カポエイラはさまざまなアクロバットの動きと組み合わされ、マクレレやサンバ・ジ・ホーダ、プシャーダ・ジ・ヘジなどとセットで、舞台の見世物になりました。今日、自称・他称ともにアンゴレイロとみなされているメストリたちも、当時はショーだと割り切って、アクロバチックな演目に出演していました。またパスチーニャの後継者的存在だったジョアン・ピケーノも、「コンテンポラニア」やヘジオナウの発明品であるコルダゥンやバチザードを採用するに至っていたのです。

第3幕 アンゴラ、ヘジオナウの復興期 80年代

gcap■アンゴラ、ヘジオナウを押しやるパワーを持った新しいカポエイラが起こったのがリオ、サンパウロを中心とした南部の大都市であったならば、アンゴラを復興する動きもまたリオで始まりました。ここで決定的に重要な役割を果たしたのが、メストリ・モライスです。彼は8歳でパステーニャのアカデミアに入門し、主としてジョアン・グランジにカポエイラを学びました。1970年ごろからリオに滞在していたモライスは、1980年、GCAP【Grupo de Capoeira Angola Pelourinho】を立ち上げます。リオに何人かのメストリを残し、82年にサルヴァドールに戻ったモライスは、弟子のコブリーニャ・マンサとともに古いメストリたちにカポエイラに戻るよう働きかけました。当時、多くのメストリたちは、カポエイラを離れ、貧困の中にその日を食べつないでいたのです。ジョアン・グランジがコブリーニャの強い説得に折れて、カポエイラのレッスンを再開したのは1984年のことでした。

■攻撃性の強いカポエイラがもてはやされた当時にあって、カポエイリスタたちの間には「アンゴラは女のするものだ」「ホーダでアンゴレイロの頭を踏みつけてやる」というような雰囲気があったそうです。ここには「アンゴラは非力で、床を這いつくばるもの」という明らかな偏見が見て取れます。このような中でモライスは、「コンテンポラニア」と対等に戦える「強いアンゴラ」を復活させました。今日モライスやコブリーニャが厳しいハステイラを得意とするのは、このような時代の要請があったのです。アンゴラを再び認めさせるためには、実力で示すしかなかったんですね。

■ところでモライスによるアンゴラ復興の動きを、歴史のより大きな流れの中で眺めるとき、GCAPの創立とブラジルにおける黒人運動の隆盛とはパラレルの関係にあることが分かります。モライスは、当初からカポエイラのアフリカ起源性を強く主張し、被抑圧者としてのネグロの地位改善に強い関心を示しました。モライスにとってカポエイラとは、単なるスポーツではなく、先祖から受け継いだ文化の総体であり、それを通じてネグロの置かれた状況を改善していくべき手段と位置づけられました。モライスもコブリーニャも大学を出ており、もはやパスチーニャ世代の文盲のメストリたちとは違います。彼らの緻密な論理に裏打ちされた政治的主張は、並みのカポエイリスタたちでは歯が立ちませんでした。

■加えてモライスは、卓越した歌唱力、ビリンバウの腕前、そしてリーダーシップを持ちあわせていました。今日アンゴレイロが理想とする、ジョーゴ、音楽性、精神性の3拍子そろったカポエイリスタのモデルは、紛れもなくモライス以後に形成されたものです。それまではアンゴラのメストリたちの中にも、ジョーゴは巧いが、歌は歌えない、歌唱力は最高だが、ビリンバウは弾けない・・・、こういう「メストリ」のほうが実は多かったのです。GCAPの力強いバテリア構成、とくにビリンバウのパート分担やヴィオラの独特なヘピーキは、以後のアンゴラグループに決定的な影響力を持ちました。さらには手拍子をしない、靴を着用するなどといった細かい決まりまでが、あたかもアンゴラの必須条件であるかのごとく、多くのグループに共有されていきます。今日アンゴラの「伝統」と考えられている要素の中には、実はこのときにGCAPによって定められたものが少なくないのです。

filhosdebimba■カポエイラ・ヘジオナウにも復興の兆しが現れはじめました。1986年、ビンバの息子ネネウが、フィーリョス・ジ・ビンバを立ち上げました。彼は、いわゆる「コンテンポラニア」がオリジナルのヘジオナウからはかけ離れたものであるとして、父が伝えようとした伝統への回帰を目指します。父ビンバが亡くなったとき、まだ14歳だったネネウは、本格的に父と練習した時間はわずかでした。そこでメストリ・デカニオをはじめとするビンバの初期の弟子たちに協力を仰ぎ、楽器のフォーメーションや儀礼的な側面、技の運用の仕方など、純粋なヘジオナウの復活に力を注ぎました。1994年にはフィーリョス・ジ・ビンバの中にメストリ・ビンバ基金【Fundação de Mestre Bimba】が創設されました。

■ところでジョアン・グランジが来日した時、われわれカポエイラ・ヴァジアソンは横浜のアンゴラ・センター・ジャパンと共催で名古屋で講習会を開きました。そのときにひとりのアンゴレイロがメストリにそっと耳打ちしたのを覚えています。「メストリ、日本のカポエイラのほとんどはヘジオナウばかりなんです」。こういう見方は決して彼独自のものではありません。ブラジルにおいてもアンゴレイロたちの多くは、自分たち以外はすべてヘジオナウだと一括りに「名づけ」てしまうことが少なくないのです。それが正しくないことは上に長々と見てきた通りです。そしてこのような見方をされるのが、オリジナルのヘジオナウ復活を目指すメストリ・ネネウたちにとっては、たまらなく耐え難いものだったのですね。

■設立から20年目を向かえ、今日フィーリョス・ジ・ビンバは、すっかりヘジオナウの総本山となった感があります。毎週土曜日の午前中に行われるホーダには、白髪頭のビンバの元生徒たちが、まるで子供のようにはしゃぎながらカポエイラを楽しみに集います。しかしながらアンゴラの復興に比べると、どうしても孤軍奮闘という感じは否めません。ビンバの弟子たちの多くは、今日でも「コンテンポラニア」寄りの変化から抜け出していないからです。ごくごく単純化した表現をすれば、コンテンポラニアからヘジオナウに回帰することは、華美で無意味なアクロバットと決別することを意味します。折からのカポエイラ・ブームの中で、生徒の獲得競争という土俵に乗っている限り、「生徒を失ってでも」という覚悟ができる人はやはり多くは出てこないのでしょう。誰にでも生活があるわけですからね。「だからこそカポエイラを生計の手段にするべきじゃないんだ」と、言うのは簡単です。しかし彼らにとって職業の選択肢をめぐる現実は我々が想像する以上に厳しいんですね・・・。

第4幕 あなたのカポエイラはどれですか?

■さてフイ・タケグマの紹介から本稿を始めたので、ここで彼の論旨を簡単に紹介しておきましょう。言い忘れていましたが、彼自身はアンゴレイロです。彼の主張はとても明快です。すなわちアンゴラだけをしている人がアンゴレイロ、ヘジオナウだけをしている人がヘジオナウ、それ以外のものはすべてコンテンポラニアという分け方です。「創られて50年に満たないスタイルはすべてこのカテゴリーに含める」とし、実際、世界中のほとんどのグループはここに入るとしています。またスタイルの判断は、グループ名や師匠の系列で見るのではなく、あくまでもその人が今実践しているあり方で判断されるべきだといいます。たとえばメストリ・ブラジリアのようにカンジキーニャの弟子であっても、ヘジオナウの要素を混ぜてしまえば、もはやアンゴレイロではない。逆にやはりカンジキーニャの弟子でコルダゥンを採用していたパウロ・ドス・アンジョスの門下であっても、自らの決断でアンゴラのみに専念するヘネはアンゴレイロだという見方です。これには私もまったく賛成です。

■アンゴラについての話を聞こうとすると「お前のメストリは誰だ」とまず聞いてくるメストリがいます。「メストリ・~です」「んー、知らないなぁ。彼は誰に習った?」パスチーニャ系列で血統的にはまさにサラブレッドのそのメストリにそんな質問をされれば、たいていの人はシュンとしてしまいます。一方で今日リオやサンパウロで立派な活動をしているアンゴレイロたちは、その出自を問えば90パーセント以上は元コンテンポラニア、ようするに「雑種」なんですね。過去の歴史を振り返るとき、日本の単一民族国家の神話にせよ、ナチズムにせよ、純血を求める思想は常に差別と排斥を伴いました。フイの主張するように、重要なのはその人が何を選択し、現在どのようなカポエイラをしているかということだと思います。メストリ・モライスにだってリオ時代にコルダゥンを採用していた時期があったんですよ。このことは隠すことでも何でもありません。なぜならそれはむしろ私たちに勇気を与えてくれるからです。つまり、誰もが変われるし、それが認められなければならないということなんですね。

brasiliapq■さてこれまで長々と勝手なことを書いてきましたので、最後に私自身の立場も書いておくのが公平ですね。私にとってカポエイラは、アートであり、自己表現の手段であり、他者との大切なコミュニケーションのツールです。私にとってジョーゴは、メストリ・ブラジリアが説くように、実社会での人間関係、会話と同じようなものです。可能な限り相手の言うことに耳を傾けたいと思うし、独りよがりにならないように気をつけます。必要なときにはわざと聞いていない振りをしたり、相手が緊張しているときはおどけてみたり、子供と接するときは同じ目線まで降りてみたり・・・。実際の生活の中で気をつけなくちゃいけないことはホーダの中でも活かせますし、ホーダの中でシュミレーションする危険の回避は、実生活にも応用することができます。だから私個人的には、相手とかかわりを持たない「宙返り」には全く関心がありません。

■こんな私ですが、サルヴァドールでホーダに入ったり、古いメストリたちと話をする中で、「なかなかいいアンゴレイロだな」とお褒めの言葉をいただくことがしばしばあります。私は苦笑しながらも、素直にうれしく思います。一方でユニフォーム姿の私を見ると顔色を変えるアンゴラのメストリもいます。腰にコルダゥン、足は裸足のようなときですね。まるで狐に化かされていたかのようなメストリの表情を見ると、こちらのほうが申し訳なく思ってしまいます。ここで何が言いたいかというと、私に対する「名づけ」は、私のジョーゴを見たとき、会話をしたとき、服装を見たときで変わりうる・・・、さらにアンゴレイロとされるメストリたちの中でも私を仲間として受け入れてくれる人とそうでない人と、意見が分かれるということなんです。

■ちなみに私の「名のり」は、ズバリ!「カポエイラ」です。フイに「名づけ」させればコンテンポラニアですね。ブラジルに行けば、訪ねるメストリや意見を交わすカポエイリスタのほとんどはアンゴレイロですが、私自身にアンゴレイロというアイデンティティーはありません。誤解を恐れずに言うならば、フイが定義する意味でのアンゴレイロという枠に収まって幸せに満ちたカポ生活を送るより、今はまだスタイルのせめぎあいにもまれながら、他人の評価にコンプレックスを感じながら、混沌としたコンテンポラニアの世界に身をおくほうが自分自身を鍛えられるような気がしています。

■私は、私たちのグループ名「ヴァジアソン」という言葉に特別の思いを込めています。それはまだスタイルのことなど誰も気にしていなかった時代、純粋に仲間と楽しむためにホーダを囲んだ時代、技術的にも儀礼的にも非常に自由だった時代への憧れかもしれません。カポエイラのテクニック、知識、ましてや情熱を他人と競争するのはナンセンスです。メストリ・パスチーニャが言ったように「一人ひとりみな違うん【Cada um é cada um】」ですからね。さまざまな個性が集まって一つのホーダを作る、さまざまなスタイルが集まってもホーダができる。この多様性の中の協調こそ私たちカポエイリスタが目指すテーマであろうと思います。そしてここで再び、ホーダの中の理想は、実は私たち地球人の理想でもあるというところに戻ってきました。

Iê Viva meu mestre
Iê Mestre Brasília
Iê que me ensinou
Iê a vadiar
Iê a aprender
Iê a respeitar
Iê a CAPOEIRA !

■まだまだ書きたいことはあるんですが、とりとめもなくなるので、今回はこのあたりで止めときます。ここまで読んでくださった方ありがとうございました。ここだけ読んでくださった方にも同様に感謝します。おもしろそうだったら、また上も読んでみてください。

2006年4月5日
メストリ・パスチーニャの誕生日に

カポエイラ・ヴァジアソン
代表 久保原信司

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